第2話 呪いの言葉

 

 天界を追われた天使を、堕天使と呼ぶ。墜落するほどの禁忌を犯した彼等はきっと、翼と天使のを奪われる。


(どんな理由でも、それはなあ)


 ある天使が羨むのは、負の感情や己の欲望に支配されること。であれば、天使が所有していようと、人間の持ち物だろうと彼女にとっては等しく魅力的に映る。

 これを悪いことと認識しない彼女は、自ら墜落を選ぶこととなった。


 

「黒をになった最愛なる天使よ、お前を堕天使とするのは心苦しい。だが、崇高なる天使が犯した大罪を、見逃す過去は存在しないのだ。――許せ、黒天使」


 月明かりを含んだ雲の上。天界と呼ばれるこの世界で、父と呼ぶべき創造神は言った。


 父と言っても、この世界を創り出した張本人。天使を創った彼は全てが整う基礎の顔。老化の概念を持たない存在は、人間でいうと三十代半ばの風貌のまま硬い頭を使って天使を堕天させるらしい。


(わざとらしい仰々しさも、嫌いだ)

 

 黒天使と呼ばれた天使は、静かに雲へ膝をつく。

 はらり、と黒髪が重力へ引かれて顔に影を落とす。黒いショートカットの髪型は、最初に出会った人間の真似をした。もう顔も覚えていないほど、昔の話だ。


 誰よりも天使の働きをしていた彼女は、優秀ゆえに黒を纏っていた。彼女は、創造神が求める天使像そのものだった。

 

 創造神が心を痛めるのは至極真っ当だ。深い愛を初めに黒天使へ与えたのは、紛れも無く創造神ただひとり。

 平等に愛を与えるの天使たちに囲まれて、黒天使は堕天使へと成り変わる。


 火が灯された蝋燭ろうそくのように、翼がどろりと溶けていく。いやに悍ましさを与える工程に、彼女は顔をしかめて無言で耐え忍ぶ。


(うっわあ、きもちわる。これも堕天使への洗礼? 誰? この感覚設定したの。……創造神、やっぱりだいっきらい。でもこれは、


 そうして彼女は涙を頬へ流す。形式的に『このシーンで必要な嘘』を瞳から落として魅せた。雰囲気にあてられた天使たちから、同情の色が滲みだす。


(みんな、優しいなあ。これで後悔するような覚悟なら堕天使になるわけないのに。私の愛を、心の声を、理解してくれた天使はいないのか)


『ですよね』と、諦めが心を軽くする。やはりこの選択は正解だ、と確信を抱く程に。

 都合の良いように解釈するなら、全てを理解して立ち回ってくれている演者という線もある。そんなことがあるなら、随分と好みの天使だと感嘆の声をあげよう。


 黒い翼が溶ける間に、嫌い認定をしたアレが場を進める。


「おまえが保有する魔力は、膨大だ。消し去るのが惜しい程に」


 好調。予想通りに展開が進むことは理想的だ。誰よりも天使らしく、真面目に蓄えた魔力を創造神は消し去らないだろう。

 既に解いた式を、もう一度。


(他の天使への魔力移動、または魔法石への封印。抹消は無い。いざ、答案を!)


「ゆえに、魔法石への封印を――と思っていたが、お前の魔力に合う石が見つからなかった」


(となると、魔力移動か)


 第一希望は魔法石への封印だった。それを奪えば、黒天使は堕天使となっても魔力を失わずに過ごすことが出来る。無くても良いが、有るなら欲しくなるのは当然だ。


「天使への魔力移動が無難だが、今回はこれへ移す」


 白い光が創造神の手の中に生まれて、丸く広がる。柔らかい光が大きくなり、雲の上でふわっと散ると、それが形を現した。


「……狼?」

「そうだ。これが、おまえの魔力に一番耐性がある。そして、これと共に地上へ堕ちるとする」


 答案は予想外。魔法石なら奪う、天使への移動なら諦める、の二択だった黒天使は驚いた。魔法が使えないのなら、ただ諦めるだけ。魔力は絶対必要条件ではないのだ。


「承知しました。最後は、神の心に従わせてください」


 涙をもうひとつ。雲に落ちる涙を見送って、神妙に顔を上げる。


(今の私、儚すぎ美しすぎで誰よりも愛らしいだろうな。客観的に見られないのが悔やまれる)

 

 ぱちり。

 そのとき、狼の瞳が開いて堕天使と視線が重なる。夜空のように真っ黒な瞳に、星が宿るのを見たようだった。


 最後の別れとばかりに、創造神は堕天使の頬に手を当て涙を拭う。


「美しいね。綺麗だ」


 最後の抱擁。愛すべき天使が、犯した罪を償うために地上へと堕ちる。

 神は堕天使の耳元へ口を寄せ、彼女にしか聞こえない言葉を吐いた。

 

「――これは鎖だ。猛省するように」

 

 鎖という言葉へ、黒天使は静かに糸を繋げた。それは遠い記憶。創造神との会話の中で黒天使の逃走を阻む契約。


『お前が私の手から離れられないよう、鎖を準備しておこう』


(私はあの時、何て返した?)


 反射的に記憶の中を探し回る。それは記憶の奥深く、あれは創られて間も無い頃。

 彷彿される記憶とともに、身体の奥からくつくつと笑いが込み上げてくる。


(ああ、そうだ。ここでは笑えない。この感情は仕舞うべき代物だ)


『離れることは、ありません』


(言ったな。そんな事を)


 愛は途切れる。それが天界においての共通認識。誰もが一時的という其れを、今の黒天使は信じたいのだ。

 している。自らで、愛は一時的なものだと証明する様を、創造神は告げたいのだろう。


 感情に魅せられた黒天使の心変わりを想定していたのだろうか。

 芝居がけて作ったこの状況も、天使を創った神はお見通しという忠告。


(色付きの天使は騙せても、貴方は騙せない。貴方の深い愛は、いつまでも費えることはないのだろう)

 

 羨望と嫌悪、これも愛すべき感情だ。まだこの天界で、新しい心を持てることに感謝を。遅すぎる反抗期だと思われても良い。

 堕天使はそうして強く心に吐き捨てる。


(このクソ親父とは、永遠に理解し合わねえ)



 黒い翼が溶けきって別れの時間は終了する。


 黒天使の魔力は、すべて一匹の狼に移し替えられた。

 

 この狼だけが堕天使にとって唯一の計算外。けれど、その他の出来事は全て予定通りだ。あの頑固な創造神が吐いた呪いの言葉でさえ、一応は想定内の出来事と言っていい。

 

(魔力で発散できなくなった頑固親父の胸糞悪さも、新たな門出の祝福と捉えよう。ぶっ飛ばしてやりたいが、アレに勝ると勘違いするほど驕っていない)

 

 彼女にとって穢れることの意は、自分を隠して誰かの理想を叶えること。

 彼の居ないこの天界で、幾つもの夜を過ごすこと。

 

 彼女にとって、黒い翼を溶かすより、惰性で日々を溶かすことのほうが耐えられない。



 こうして、天使は地に堕ちた。

 狼と共に。

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