重力

 キラは起きてすぐに微かな違和感を覚えた。

 ベッドから降りて背伸びをし、肩を鳴らす。いつもとなんら変わらない朝の習慣を行っている時に、不意に目に入ったタンスの位置がおかしかったのだ。正確に言えばタンスの引き出し取っ手の位置だ。

 タンスの取っ手はキラの目線より若干上にあるから、いつもならば目線に入らないはずなのだ。それが何故か目線上にある。顔を上げた先にそれがある。

「……あれ?」

 寝癖のついた髪を撫でつけながら周囲を見回す。そうすれば明らかなになる昨日とは違う世界。

「目線が、高い?」

 目を何度擦ってみてもそれは変わらない――。

 キラの頬が紅潮し、唇がぷるぷると震える。起き抜け、寝惚け眼であった目が丸くなり、次第にきらきらと輝きだす。普段は大人ぶり、副長を見習い頑張って寡黙になろうと閉ざしがちな口から、感嘆の声が漏れた。頭に手を乗せ、頻りに平行移動させるという不可解な行動をとり、そして彼は猛然と駆けだした。

 勝手知ったる我が家である。力任せに開けられたドアが悲鳴を上げようと、階段がどれだけ軋もうと知ったことではない。

 今、彼を突き動かすのは揺るがしがたい歓喜なのだ。

「ちょっと聞けよ!」

 爽やかな朝の空気が満たすダイニングに、子供の嬉々とした声が響く。

 すでに着席していたカストが新聞から顔を上げ、テーブルに置かれていた牛乳の入ったグラスを反射的に持ち上げた。

 朝食の支度をしていたらルナが律儀にも、キッチンからとことこと出てくる。

「どうした?」

 ぼそぼそと低い声でルナが問う。

「背が伸びた!」

「背?」

 ルナがひょこひょことキラに近付き、それこそお互いの呼吸音すらも聞こえるまでに近付き、キラが部屋でやったように自らの頭に手を乗せて横にスライドさせる。キラもキラで、誰かに証明してやりたいという思いが強くされるがまま。カストだけが何故か憐みの篭った眼差しでキラを眺めていた。

「……変わらない?」

「いや、変わった! 目線が変わった! たぶんミリ単位で伸びたんだって!」

 頬を赤らめてはしゃぐキラの頭の天辺から足の先を、ルナのマリンブルーの瞳が幾度となく行き交い、納得したように小さく頷く。

「牛乳、やめる?」

 我が事のように微笑む彼女の質問にキラは、目指すは七十五だ、と豪語し毎朝牛乳の続行を宣言する。それに、彼女はこくんと頷き、キッチンに戻っていった。

 さて、キラは意気揚々とカストの向かいの席にどかりとふんぞり返る。普段の無愛想はどこへやら、ご機嫌で今にも鼻歌を歌いだしそうだ。

 カストは逃していた牛乳のグラスをキラの前に戻してやった。哀れみの眼はそのままに。

「……キラ」

「何だ?」

「お前、重力って知ってるか?」

 突然何を言い出すのかと思うも、キラはとりあえず肯定する。

「人間も重力に引っ張られてるって知ってるよな?」

「何が言いたいんだよ」

 よく意味が解せず、キラの眉間にしわが寄る。

 折角いい気分で朝を迎えられたのに、なんだその含みを帯びた言及は。

 胸に湧き出でる不満をありったけ目で訴えれば、敏いカストは肩を竦め、再び新聞に視線を戻した。

「今日は良い朝だなーって思っただけ」

 そう言って、カストが小さく鼻で笑った。

 燦々と降り注ぐ陽の光に晒された牛乳のグラスから、つるりと水滴が滑り落ちた。

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