8:赤

 なにがあったのか全然覚えていない。

 気が付いたら、家にいた。

 すこし離れた場所……玄関口に落ちているスマホは赤黒い液体で汚れていて、触りたくない。

 カーテンは閉まっているけれど、隙間からは明るい光が漏れている。今は……お昼くらいかな。


「おごさまは……」


 視線を落とすと、膝の上にはをいつも入れている箱がちゃんとあった。

 よかった。飲み過ぎて、座ったまま寝ちゃってたのかな。

 いつもみたいに両手で蓋を持ち上げてから蓋を開けようとして、違和感に気が付く。

 左腕を動かしたつもりだけど、妙に軽い。視線を向けると、左腕はおばあちゃんと同じように肘の先から無くなっていた。

 ハヤトさんに折られた時は、痛み止めを飲ませて貰っていたみたいだけどずっと鈍い痛みがずきずきと背中を中心に居座っていた。でも、今はなんでかわからないけれど全然痛くない。

 あれからどうなったんだろう。考えようとするけれど、昨日のことを思い出そうとしてもモヤモヤと気持ち悪いような、鈍い頭痛が感覚が込み上げてきてなんだかどうでもよくなってしまった。

 それから、繭から出てきたおごさまみたいなものと見つめ合った時間を思い出す。あれは夢かもしれないけど、でも、すっごくしあわせだったな。

 蓋を開こうとして、指先に力を込める。いつもより開きにくかった蓋は、ニチャっと湿った音を立ててゆっくりと開いた。

 箱の蓋になにか粘ついたモノがついていたみたい。箱からは、煮詰めたシロップみたいな甘い匂いが広がって、白いの繭が見える。


「ぁ」


 小さく声が漏れた。

 いつもの白くてきらきらしていてかすかに光っている繭のおごさまも、とっても素敵だった。

 おばあちゃんの持っていた熟した桑の実どどめ色の繭も嫌いじゃ無かった。

 でも、それよりもずっとずっときれいな形になった繭がそこにはあった。

 うれしくて顔を近付けると、繭の割れ目が微かに震えて、内側から赤い光が漏れ出す。


「ぉあか……ぅいあ」


 真っ赤な色をした宝石みたいな光が、繭の割れた部分から漏れて箱の内側を照らしている。

 あかちゃんみたいな高い声でたどたどしく話す様子が本当にかわいくて、わたしは箱を右腕だけでもちあげて、胸に押し付けて抱きしめた。

 

「お腹が空いたのね。わかった。わたしがなにか食べさせてあげる」


 さっきまで本当に虚しくて動くのも嫌だったけれど、おごさまのことを考えると糸で腕を捧げた時みたいに幸せな気持ちがお腹の下あたりから湧き上がってくる気がする。

 でも、おごさまは何を食べるんだろう。おばあちゃんに聞けば良かった。

 それとも、地元に帰れば何かわかるのかな。

 そこまで考えて、おばあちゃんが言っていたことを思い出す。


――願いを叶えてくれたおごさまにはお礼をしたらちゃんとお帰りいただくんだよ。


 わたしは、ちゃんと願いを叶えてもらってない。だってアレはハヤトさんに言われて仕方なくお試しでやったことだから。

 だから、きっとおごさまはちゃんと願いを叶えられなくて、中途半端な形になってるのかもしれない。 

 でも、田舎のひとたちは都会に出たわたしを妬んで何も知らないのをいいことにおごさまを「帰そう」っていうかもしれない。どうしよう。


「ぉぁ、か、ぉあか……ぅいあ……」


 繭の中から響くかわいい声はもう一度わたしを呼んだ。

 とにかく、今は、この子が食べるものを探してあげなきゃ。桑? でも蚕じゃないし……蛹になってからは何も食べないよね?

 かわくてやさしくてわたしのことを抱きしめてくれるおごさま。

 指で割れ目をなぞるとしゅるしゅると白くて細い糸が出てきてわたしの指に巻き付いてきた。

 白い糸はすぐに赤くなって、それが自分の血だと少ししてから気が付く。リスカもアムカもしたことあるけど、これは全然痛くない。きっと、おごさまがわたしのために痛くないように気をつけてくれるんだろうなってうれしくなる。

 血が飲みたいなら、たくさん飲ませてあげよう。いい方法、ないかな。わたしの血じゃなくてもいいなら、たくさん飲ませてあげられるけど、わたしの血だけなら……レバーとか食べた方がいいのかな。

 そういえば、わたし、昨日はハヤトさんとお店にいたんだった。

 それで、おごさまにお願いをして不細工なボーイをちょっと怖がらせてあげたんだっけ。よく覚えてない。

 今、わたしが家にいるってことは、多分、うまくやれたんだと思う。でも、おごさまがこうやって動けるようになったのはいいけど、あいつのために腕を使ったみたいでムカつくな。

 糸が離れて、おごさまの声は聞こえなくなった。お腹がいっぱいになって寝ちゃったのかな。

 箱をテーブルの上に戻してから、わたしは玄関口に放ってあるスマホを指で摘まみながら持ち上げる。

 べとべとして赤黒いのはお酒なのか血なのかわからない。でも、甘い匂いがするから血じゃないはず。

 おごさまの隣にスマホを一度置いてティッシュで拭いて電源を入れる。


「カイトぉ」


 カイトから着信がたくさんきていた。そうだよね。昨日から連絡が取れなかったから多分心配だよね。ハヤトさんと寝たとか思われてないかな? 安心させてあげなきゃ。お店からの着信を削除してから、わたしはカイトに折り返し電話を掛けた。


『さあや! お前、どうしたんだよ』


「え? 普通に今起きた。どしたの」


 カイトの声がいつもより切羽詰まっていて、そんなに心配してくれたのかなってうれしくなった。

 あとでカイトにも教えてあげようっと。おごさまがかわいくてきれいになったんだよって。


『ハヤトさんと斉藤がいないんだよ。お前、閉店後話をしたんだろ?』


「しらない」


『は? ふざけんなって。店、大変なことになってんだよ。とにかく、会いに行くから、話聞かせろ』


 頭の奥が冷たくなった。

 なにもしらない。でも、カイトはなにか怒ってるみたいだった。まるでわたしが悪いみたいに。

 通話が切れて、カイトが会いに来てくれるならうれしいはずなのに、胸がざわざわする。

 知らない。知らない。わたしは、悪くない。なにも、知らない。


 おごさまに手を伸ばして箱を開く。おごさまから溢れる赤い光がチカチカと明滅して、白い糸がしゅるしゅると数束伸びてきて、左肘をゆっくりとさすってくれる。

 おごさま。どうしたらいいのかな。わたし、なにもしてないよね。

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