5:ハヤト

「なんで? ねえ、今日タワーも入れたのにどういうこと? カイトってば」


「リナさん、今日のところはちょっとカイトを借りていいですか? 大切な話があって……」


 閉店時間を少し過ぎてから、あの女がごねる声が微かに聞こえてきた。よっぽど大きな声をレジではりあげてるんだろうなっていい気持ちになりながら耳をすます。

 うっすらとハヤトさんがあの女を宥める声が耳に入ってきて、それから乱暴な足音が遠ざかっていく。

 たぶん、あの女はタワーも入れたのに一人で帰ったんだろうなぁ。ざまあみろと思ってスマホをタップする。SNSの愚痴垢に今日のことをちょっとつぶやいてスマホを置くと、ハヤトさんが一人で部屋に入ってきた。


「あのぉ……カイトは?」


「見送りだよ。閉店作業が終わるまでもう少し待ってて」


 こちらを一瞥してハヤトさんは部屋を出て行った。

 カイトがいない。

 もしかして、カイトはあのクソ女とアフターに行った? 高い金を払えばカイトの心まで買えると勘違いしているクソ女め。

 あの女をなんとかすれば、カイトはわたしと一緒に暮らしてくれるのかな? それなら一生に一度しか使えないに、おねがいしてもいいかもしれない。

 本当は、カイトとの間に子供がうまれたときに、子供のためにお願い事をとっておこうと思ったけど。

 だって、わたしは母親あんな人と違って、子供も愛せるし、子供のことを大切にするに決まってるから。

 おばあちゃんは、どんな願い事をしたんだろう。聞いておけば良かったなぁ。


「まだかな……」


 閉店時間が過ぎて、二十分くらいしたけど、この部屋には誰も来ない。控え室的なところなのかなって思っていたから、閉店作業をするときに他のスタッフたちも来ると思っていたけど扉が開くことはなかった。

 みんなが使うロッカーとかは別のところにあるのかな。それとも、わたしがいるからみんな特別に気を使ってくれてるとか? 今日は怒られちゃったけど、だってわたしはハヤトさんが感謝するくらいカイトに認められている特別なパートナーだもんね。

 まだ誰も来そうにないから、わたしは気持ちよくSNSに事務所の写真を撮って載せた。

 どうせ鍵垢だし、わたしをフォローしてるのは冴えない風俗嬢たち数人だ。わたしみたいに大切な人に尽しているんじゃ無くて、ホストに狂ってバカみたいにみついでるただの客。

 そんなバカ女たちに「特別な存在になる」っていうのはどういうことなのかみせてあげるのも悪くない。

 何枚か事務所の写真を撮って、彼氏の仕事終わりを特別に奥で待ってる!と投稿したところで、足音が二つこちらに近付いて来た。

 特にやましくないけれど、一応スマホを鞄にしまって扉を見る。怒られた時にスマホを見ていたり、本を読んでいると「反省してない」って母親や、学校の先生に怒られるし、大人になってからも職場のうざいスタッフに言われたことがあるから、きちんと反省していることがわかるように背筋を伸ばせて眉尻をさげておく。

 スマホをしっかり座って、手は膝の上に置きながら扉の方へ視線を向けた。


「お待たせ。話はカイトから聞いたよさあやちゃん」


 蛍光灯の下なのに、ハヤトさんの瞳は何故か金色に光って見えた気がして怖くて息を飲む。

 思ってるよりも、怒ってるのかな。

 隣のカイトはというと、ずっと俯いていて顔はほとんど見えないけれど、口の端が少し切れて血が出ていることだけわかった。腫れているのか輪郭もいつもと違うように見える。


「カイト? どうしたのそれ」


「立つな。座ってろ」


 立ち上がってカイトを心配しようとしたら、ハヤトさんに怒鳴られて体が固まる。

 その場でしりもちをつくようにソファーに座ったわたしの目の前に、二人は並んで座った。

 妙に甘い香りがふわりと鼻をくすぐるけど、それでも誤魔化しようのない悪臭がどこかから匂ってくる。洗ってない犬とか、猫が子供を生んだときみたいな臭い。

 何か臭くないですか? という間もなく、ハヤトさんは少し前のめりになるような姿勢になって話し始めた。


「人殺しだって出来るくらいなんて、穏やかじゃないだろ。さあやちゃんは実際にそんなことしたことあるの?」


「……ないです」


 口の中が妙に乾く。緊張しているのかもしれない。声が掠れて、握りしめて膝の上に置いた手が震えているのが自分でも分かる。


「だろ? 無責任な約束をするのは信用を毀損するってことだよ。わかる?」


 どういうことかわからないけれど、首を横に振ったらハヤトさんが怒るような気がして、わたしはわからないまま頷いた。

 脳天気に考えていたけど、自分で思っているよりも大変なことをしてしまったらしいというのは、わかる。


「毀損された信用は、別のことで補填しないといけないのはわかるよね」


「べつのことって……わたし……その」


「カイトとこれからも特別な関係でいるために、何をしなきゃいけないのかわかるかい?」


 優しい声だった。口角を上げながらそう話しているけれど、ハヤトさんの目は怒っているのがわかる。

 カイトは黙ったまま俯いていて、どんな表情でいるのかわからない。わたしのことが好きなら、助けてほしい。特別な関係でいられなくなったら、カイトも困るはずでしょ?


「わからないか。そうだよね。それはそれをさあやちゃんに教えなかったカイトの責任だ」


 にっこりと微笑んで、立ち上がったハヤトさんはカイトの方を見るとそのまま流れるような所作でカイトの頬を平手で思いきり叩いた。


「っ……」


 顔をあげないままカイトが顔を背ける。ハヤトさんは怒りが収まらないのか、もう一度腕を振り上げた。気が付いたら、わたしはそんなハヤトさんの腕にすがりついていた。


「やめてください」


「やめてもいいけど、君は毀損した信頼を埋め合わせるために何を差し出す?」


 そのまま腕を振り払われて、わたしは体を投げ出される。

 テーブルに腰を打ち付けて痛い。でもそんなわたしを気遣う素振りなんてハヤトさんはしないまま、腕を伸ばしてわたしの顎を掴んだ。


「君が一番大切なものを店に預けて貰おうか。実家の住所を教えてくれたら僕らが見繕うけど」


「実家は……こま、こまります。あの、その田舎で……なにもないし」


 スッと目を細めたハヤトさんが、座ったままのカイトに向かって腕を振り上げる。

 体が反射でうごいた。わたしはハヤトさんの腕の下をくぐり抜けて駆け寄ったカイトに覆い被さる。

 背中に拳がめり込む感触がして、鈍い痛みがじわりじわりと広がる。でも、殴られるのはお店で慣れているし、火傷みたいに痕も残らないから、平気だ。

 それよりも、わたしがちゃんとしないとカイトが酷い目に遭っちゃう。可哀想なカイト。

 息を飲む声が聞こえたけど、カイトの顔は見られなかった。すごい力で肩を掴まれて、わたしはまた床に放り投げられる。


「あの、これ……これです。これ、みてください」


 四つん這いになってソファーにかけよりながら、わたしは鞄からスマホを取りだした。

 カメラロールをスクロールして、かなり前に撮影したが入っている繭をハヤトさんに見せる。

 スマホを奪うように取り上げたハヤトさんが、首を傾げながらわたしが見せた画面をそのまま見せてくる。


「は? そんなゴミで誤魔化そうってか?」


「ちがうんです! これは、その……わたしの家の守り神みたいなもので」


 一瞬だけハヤトさんの目が細くなって、それから口角が持ち上がる。馬鹿にしているのか、それとも許してくれたのか判断出来ない。

 昔、友達におごさまのことを教えて、バカにされたのを思い出す。カイトに話したときだって、たぶん信じてない感じだったから……仕方ないかもしれないけど。


「じゃあ、持ってきて使ってみせろよ。嘘だったら困るからさ」


 ハヤトさんはわたしから奪ったスマホをこっちに放り投げると馬鹿にしたような口調でそういった。

 軽くわたしの体を足先で小突いてから、口元だけで笑うハヤトさんはとても怖くて声が震える。


「それが本当なら、一回使ってくれればさあやちゃんをカイトの特別なパートナーだってまた認めてあげる」


「で、でも、一生に一度しか使えないから……」


「……じゃあ、そんなもんゴミと一緒だろ」


 怒鳴ったハヤトさんが、素早く後ろを振り返りながらカイトのお腹に膝蹴りを入れた。

 それでも、カイトはなにもいわない。ただ、顔俯けたままお腹をおさえて呻くだけだった。

 立ち上がってカイトを守ろうとしたわたしを突き飛ばしたハヤトさんは、もう一度ゆっくりと彼に向かって腕を振り上げた。


「……ぐ」


 こんなときにもカイトはうつむいたままだった。普段ならハヤトさんから怒られていても、自分が悪いと思うなら言い返したりするのに……。ずっと俯いたまま黙って殴られ散るカイトは、まるでカイトじゃないみたい。それだけ、わたしがやったことに責任を感じてくれてるのかな? 自分のしでかしたことにようやく気が付いて、心臓がぎゅってにぎられたみたいに痛くなる。


「あの、つ、つかいます! でも、あの! 体の一部を……捧げないといけないんです。だから、一生に一度って……おばあちゃんも、それで腕を失って」


 ふりあげたハヤトさんの腕が止まって、微笑みをうかべたままの彼がこちらを向いた。

 接客をしているときと同じような優しそうな笑顔。薄い唇と牙のように見える犬歯、それに薄い色素のやわらかそうな髪に、金色に見える瞳……。

 いつもと変わらない表情を浮かべているから余計に怖かった。息を飲むと悲鳴のような声が思わず喉から漏れる。


「なんだ……腕くらいか」


 ハヤトさんがわたしの腕を掴んだ。

 それから、わたしをうつぶせにしたままソファーに押し倒して、背中を踏みつける。嫌な予感がして、わたしはバタバタと手足を動かすけれどハヤトさんはビクともしない。


「ほら、これで無くなっても良くなった」


 鈍い音と、瞑っていたまぶたの裏がチカチカとするような痛みと同時に楽しそうに笑うハヤトさんの声が聞こえてきた。

 自分の叫び声で頭が割れそうになる。

 もう一度ゴキンという嫌な音が聞こえると同時にわたしは意識を手放した。

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