第11話 目覚め
繫華街へと逃げ込んだセナは、格安ビジネスホテルを仮の拠点と定めてそこに身を潜めていた。
ホテルの受付で手続きを済ました時、少年を小脇に抱えていたため、従業員はいぶかし気な視線をセナに投げかけたが、わざわざ二人の関係を問いただす事はなかった。カブキストリートでは売春買春の類は日常茶飯事であり、今のセナも、少々特異な趣味を持つ類の人間だと従業員から認識されていた。セナもその誤解を解こうとはせず、カードキーを受け取ると、足早にエレベーターへと乗り込んだ。
エレベーターを降りると、セナはまっすぐに照明の切れかかった薄暗い廊下を進み、部屋に向かった。部屋につくと、扉横のスリットにカードキーを通した。扉が開錠。セナは肩で扉を押し開けて体を滑り込ませると、壁の横のスイッチを手探りで探り当て押した。部屋の照明が点灯する。何の変哲もないシングル部屋だ。調度品は必要最低限。長居をするつもりはないのでこれで十分である。
セナは少年をベッドに横にした。そして顔を一撫でしてから、部屋の内線の受話器を取り外へと電話を繋いだ。本当ならば自分で用足しのために外出できればいいのだが、この場を離れることは好ましいとは言えないため、外部の手を借りることにしたのだ。
外線のコール音が響き、少しの間を置いて受話器越しから女の気だるげな声が聞こえてきた。
「はい、こちら聖戦軍教会。どちらさま?」
友人の変わらぬ態度を想像してセナの口角が自然と上がる。
「アレックス? 久しぶり、セナよ。今って時間あるかしら」
***
彼の中に今も残るもっとも古い記憶は、ベッドと消毒液のにおい。そして自分を見下ろし愛おし気に呟く女性の声だった。
「私たちのかわいい子……」
今思えば、あれが母親というものだったのだろう。彼はそう認識していた。そして、親かもしれないその人物についての記憶は、それきり皆無だった。後の記憶は、兄弟姉妹たちと共に重たいヘッドギアを被り、来る日も来る日もネットの海にダイブする辛い訓練の日々くらいだ。
暗く先の見えない深い海の如き電子世界。それは彼に恐れを感じさせたが、同時に安心感も抱かせた。
少年にとっては、肉体の存在する物理世界よりも、0と1で構成された電子の海の方がよっぽど現実感のあるものだったのだ。
「起きて……起きて」
どこからか少女の声が聞こえてきた。少年は振り向く。その体は0と1で構成されている。
「僕らの代わりに果たしておくれ」
今度は少年とは別の少年の声が聞こえた。
果たす? そうだ、少年は果たさねばならない。彼はそのために外の世界へと連れ出されたのだ。意識が徐々にはっきりとしてくる。そして思い出す。兄弟姉妹たちと交わした約束を。
少年の体を0と1で形作られた無数の腕が押し上げた。少年の体が電子の海を急速に浮上していく。浮上していくにつれて光が差してくる。そして少年の0と1の体が、物理世界のそれへと変化する。
〈目覚めろ〉〈起きて〉〈目覚める〉〈起きろ〉〈awake〉〈AWAKE〉
かくして、少年の意識は物理世界へと帰還を果たした。
***
まぶたに当たる電灯の明かりに煩わしさを覚えながら、少年はゆっくりと目を開けた。続いて体を起こした。
見知らぬ部屋で目を覚ました彼は辺りを見渡し、そして驚いた顔でこちらを見る女の姿を認める。
セナ・リンゴは、手に持っていたパックスシを壁に取り付けられたテーブルに置いて、少年へと歩み寄った。その両手はどうしたらよいのか分からないというように宙を掻く。
「オバサン、だれ」少年は怪しい手の動きをするセナを警戒し、壁際によりながら言った。その態度は実際小動物めいている。
「あー、そうよね。驚かせてごめんなさい。あたしの名前はセナ。セナ・リンゴ。おばさんじゃなくてお姉さんね」
「…ここはどこ? おば、おねえさんがつれてきたの? ナンデ?」少年は警戒を緩めずにセナの頭からつま先を観察しながら言う。
「少し落ち着いて。まあ、先に言っておくと、あなたをここに連れてきたのはあたし」セナは少年をおどかさないよう注意しながら、少年に背を向ける格好でベッドに腰かけた。
「それで、そうした理由は、あなたをその…面倒みていた人たちに送り届ける事が仕事だからよ」
セナの説明を、少年は疑わし気に聞いている。その目は一挙手一投足を見逃すまいと目まぐるしく動き回っていた。
「…そうなんだ。うん、そっか、じゃあそう思うことにしておくよ」数分間の沈黙の後、少年は三角座りで顔を伏せて、そっけなく言った。腕と膝で隠されたその双眸が緑に輝く。
少年は素早く顔を上げた。そしてその視線を無防備にも背中を晒しているセナへと向ける。緑色の発光が一際強くなる。
「ムダよ。今は閉鎖状態にしているから、ハッキングはできないわ」振り向きもせず、セナは自身の首を叩いてみせた。
少年の顔がこわばり、緑色の光が瞳から失せた。しおらしい態度から一転、少年はセナを睨みつける。
「ま、あたしの依頼者。あなたの保護者? に連絡を取ったから、もう少ししたらここを出て保護してもらえるから」セナはサイバネ置換された少年の頭部を見ないようにして言った。子ども相手に頭部改造をおこなうような企業が、まともな扱いをするとは思えなかったが、仕事は仕事だ。
「…やだ、嫌だ!」少年はベッドの上で立ち上がり声高に宣言する。「絶対に戻らない! あそこには、二度と!」少年は必死な態度で何度も繰り返す。
セナはそんな少年をなだめようと試みるが焼け石に水。トモエカミナリ社との契約状態が継続されている現状ではどうすることもできない。
少年が勢いよくベッドから飛び降りた。そして身を屈めて走る。部屋からの脱出を試みようというのだ。
だが、それを黙って見逃すセナではない。彼女は素早く上半身を捻り、少年の腕を掴み捕えた。
「行かせるわけにはいかないわよ。とにかくおとなしくして」セナの手のひらに少年の体温が伝わる。碌に運動をしてこなかったと見えて、少年の腕は必要最低限の筋肉しかついておらず、少しでも力の加減を間違えれば簡単に折れてしまいそうなほどに痩せていた。
暴れる少年をセナが抱え上げる。だがその時、彼女の所有する端末がアラート音を響かせた。セナは端末の置いてあるテーブルを見やると、ネット回線をオープンにして自身の補助電脳と端末とを接続した。ものの数秒で予め設定していたアプリが立ち上がり、彼女の左目視界にホテルの監視カメラ映像が表示される。事前にホテルのネットワークをハッキングしていたのだ。電子戦を得手としているわけではないセナであったが、場末の格安ホテルのセキュリティ程度ならば容易に突破可能だった。
監視カメラには、ホテルの正面と裏手のそれぞれに三人ほどのヤクザが映っていた。正面のカメラ映像が切り替わる。フロントにもヤクザだ。ボサボサ髪のチンピラ風のヤクザがフロントスタッフの胸倉を掴み、その後ろでは赤いジャケットを羽織った長身のヤクザが腕組みをして仁王立ちしている。
「とっとと喋らんかコラーッ! 隠してっと承知しねえゾッコラーッ!」ボリスがスタッフを恫喝。
「アイエエエ…」胸ぐらを掴まれたスタッフは両手を上げて無抵抗の意思を示す。
「この写真の二人、ここに泊まってるんじゃねえのか⁉ アァ⁉」ボリスが二枚の写真を見せつけた。
素直に話さねば殺される。そう思ったスタッフは、震えながら写真に写る二名の居場所をヤクザに教えた。
監視カメラとの接続を断ったセナは少年を抱えたまま部屋を飛び出そうとする。
「逃げるわよ、少年。ここにヤクザ連中が来る……⁉」その時、セナの首筋に壮絶な痛みが走った。たまらずうめき声を漏らしうずくまる。〈しくった!〉電気ショックの痛みに耐えながら、彼女はこの事態の原因を理解した。監視カメラだ。監視カメラの映像を確認するために彼女は少年との会話中はオフラインにしていた自身のネット接続をオンにした。それを少年に見抜かれ、まんまと電子攻撃を受けたのだ。何たる非凡なハッキング能力か。セナは混乱気味に少年のスキルに感心した。
「僕たちは絶対に戻らない!」もがきながらセナの手を逃れた少年は、そう吐き捨てると部屋のドアを乱暴に開けて逃げ出した。
「ま、て。待ちなさ…い」セナは眩む視界に吐き気を覚えながら少年に向けて手を伸ばす。しかしその手が少年を掴むことはない。手術着のような薄手の衣を舞わせながら、少年は廊下へと飛び出し走り去った。
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