秘密の扉
汽水創
秘密の扉
夕暮れ時の校舎裏、今しがた失恋したばかりの友人は、涙で制服を濡らすことを厭わない。
紅く染まった想い人の横顔を、一瞬でも綺麗だと思ってしまった自分を殴りたかった。
「わっ……わたし、あの人しか考えられない、なんで……なんで受け入れてくれないの」
「うん……辛い、よね」
掛ける言葉を選んでいるうちに、彼女が手の届かないところまで沈んでしまいそうで怖かったから、平易な言葉でもいいからと紡いでいく。
だけど舌に乗って発せられた言葉はあまりにも上擦っていて、そのちぐはぐさに嫌悪する。
私の本心は、本心は──。
初めに感じたのは安堵だった。
彼女が告白をすると決め込んだときは、内心地獄に落ちたような心地だった。
友達でいることは、私にとってとてつもなくベストから遠いベターだ。
赤の他人よりはマシだけど、悲願からは程遠い。
だけど彼女に恋人ができてしまったら、私は今まで通り友達を全うできる自信がなかった。
だから正直、振られたと聞いて安堵した自分がいる。私はまだ少なくとも友人の席には座っていられそうだった。
そして、こうやって嗚咽に震える背中をそっと擦るのは友人の役目だ。
今日まで続いた私達の日常は、壊れずに済んだ。
きっと全部元通りだ。
それなのに、何故こんなにも悲しいのだろう。
「っ……もう、恋愛なんてしたくないよ」
そうだ。
私も同じだった。
叶うはずの無い恋を自覚した瞬間、人を好きになることの残酷さを知った。
最初は皆、物語としてパッケージングされた恋しか知らない。上澄みだけ掬ってみれば手触りがよくて、夢心地で、人生の意味なんて大層なものを見出して持て囃す。その下に流れるドロドロとしたものを知るのはもっと後だ。他人と出会って、むき出しの嫉妬や欲望に触れて、その劇薬が自分の中にもあることを知る。
蓋を開けてみれば、現実の恋は最悪だった。
こうやって友人の失恋を慰めながらも、朱が差した泣き顔に別の感情を覚える程に現実は倒錯している。
「こんなに好きなのに……なんで」
彼女の遂げられなかった想いが、私の心に鋭く突き刺さっていく。
彼女が相手の名前を何度もつぶやく。その度に胸の奥に秘めた扉が疼くように呼応する。
本当にこのままでいいのかと。
彼女から私へ向くのはどうあっても友愛だ。私の欲するものとは根本からして異にしている。
この悲痛なまでの真っ直ぐな恋慕を受けられる彼が心底羨ましい。
もう彼の話をしないでほしい。私だけを見てほしい。
最悪だ。目の前で最愛の人が泣いていて、未だに自分のことしか考えられない自分が嫌いだ。
友達失格だ、私。
だけど彼女の発する言葉すべてが、ひた隠しにしていた扉の在り処を暴こうとしている。
このまま、彼女の心の傷が癒えればまた元に戻れる。
それは程よく心地よくて、だけど絶対に満たされない渇きを知りながら自分を欺き続ける未来。
そんなの嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
私は友達になんかなりたくなかった。
こんな惨めな思いなんてしたくなかった。
本当はずっと──。
彼女と出会ってからずっと殺し続けた感情が、扉の向こうで息を吹き返すのを感じる。
私を想ってほしい。私のものになってほしい。
だって、もう私にはあなたしか見えないから。
私と、恋仲になって欲しい。
思いやりとか、友情とか、そんなものいくら積み上げても彼女の隣には届きっこない。
彼女に、1秒でも長く触れていたい。
最低で、下衆な感情の奔流こそが私の本懐だ。
今ならわかる、この先は取り返しがつかない。
この扉はあなたに出会ったときに一度だけ開いて、慌てて鍵をかけた秘密の扉。
だって私は女の子で、あなたも女の子だから。
あなたは男の子が好きで、私はあなたが好き。
叶うわけなかった。
だけどもう、そんなことはどうでも良い。
彼女の口から、私以外の名前はもう聞きたくなかった。
ぎゅっと彼女を抱き寄せる。
「えっ……」
耳元で戸惑う声が聞こえる。
嗚呼、なんて愛おしいんだろう。
その可愛らしい体躯から、整った顔立ちや天使の様に綺麗な声や赤子のように純真な心根まで全部、片時も忘れたことはない。
あなたを理解してあげられるのは、私しかいない。
失恋の傷も、私なら癒やしてあげられる。だって、その辛さをあなたよりずっと前から抱えてきたんだもの。
私ならあなたを傷つけない。だってあなたをこんなにも想っているのだから。
あなたをずっと側で見てきたのだから。
あなたを傷つけた彼が憎いと思った。
だけど私にチャンスをくれた彼に、今は感謝すらしてしまいそうだった。
その扉が、ひとたび開いてしまえば──。
「愛してる」
もう元には戻らない。
抱きしめる腕に一層力が籠もっていく。
「私だったら──」
これはあなただけに開かれた扉だ。
「こんなふうに悲しませたりしないよ」
あなたが開けてしまった扉だ。
秘密の扉 汽水創 @kisui
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます