第6話 星がよく見える美しい夜

 星がよく見える美しい夜だ。夢を見るには最適の空だ。

 それでもおさまらない胸騒ぎが俺の眠りを許さなかった。外の夜風に当たるために一人で屋敷の外に出ていた。


 ミアムと見た思い出の景色を自分の目と足で追う。ミアムを介抱したという病院。市場に繋がるという狭い裏道。記憶は時間を重ねるごとに霧がかかっていく。何者かによって、人為的に見せないように蓋がされていく。


 このままでは俺が宿る前の記憶が全て消えてしまう。ひとまず直近の記憶を掘り起こす事にした。


 ノルトゥーガ学園の校門で起きた昼の出来事。ただの言い争いだと片付けるなんてできない。それほどまでに彼女の表情が脳に焼き付きすぎていた。


 今、ティエラは何をしているのだろうか。

 決闘の時間はとっくに過ぎている。彼女に全て任せたはいいものの、実際にどのような方法で諌めるのか見当もつかない。


 …まさか、本当に使用人を辞めてしまうのだろうか。あり得ない話ではない。ティエラ自身は大事な役目と言っていたが、俺がいる手前そう言わざるを得なかった可能性がある。


 スコル本人に会いに行き、直接自身の思いを伝えに行ったのだろうか。


 それにしても俺のことを鋭い眼で見ていたあの時、気になる事を言っていた。


『ログラール様の御命にかかわる大事なことで』


 ティエラは確かにそう言っていた。俺は命の危機にさらされているのだろうか。または病気の類か…。


 さまざまな可能性を探っても結論は出ない。ティエラのあの表情を見た時のように。あの感情は結局何だったのか。しかし覚えのある感覚ではあった。


 ミアムと出会った後に嫌というほど感じた何か。俺が俺であるための何か。


 俺が感じられるはずの何か。


『敵意』?

 いや、ティエラから吸い取れるほどの敵意は無かったはずだ。あの距離で、あの表情で、あの感情で。敵意が無いなんてことはあるのだろうか。


 それとも教室で能力をふんだんに使ったせいで、何かデメリットが発生してしまったのか。


 一瞬の敵意を感じた。


 あと数歩で辿り着くこの建物──憩いの日和亭からだ。


 その時、宿屋の窓から黒い影が空を駆ける。

 影は細い両脚を見せて俺の前に立ち、右手に持っていた物を輝かせる。

 光る銀色の鋭利な刃に絡みつく赤い筋。

 間違いなく血だ。


『ログラール様の御命にかかわる大事なことで』



 ――――――――――――――



 星がよく見える美しい夜だ。まるで…そう、ティエラのような。

 陽に照らされて光り輝く髪もいいが、夜風に靡く流星のような髪もいい。


 あのような美しい女性に、あんなガキはふさわしくない。


 所作も礼儀もなっていない。ノルトゥーガ学園に通えるほどの地位を持ちながらあの態度。気に食わない。


 酒の入ったジョッキを机に打ち付ける。


「スコルよ。起きているにも関わらず歯軋りが酷いではないか。何かあったのかね」


「いえ…。取り乱しました」


「…して、どうだった」


「ログラールという男。貴族の諍いに巻き込まれて文字通り身体が破裂する程の重傷を負ったと聞いていましたが、数日が経過しただけであの治り様。やはりあの娘の力は本物です」


 …そのログラールの近くにいた白髪の少年。ヤツは間違いなく危険だ。そもそも学園、いや王国にいる事自体がおかしい。必ずヤツはワタクシ達を亡き者にするだろう。


「そしてヤツは早々に排除すべきかと。ヤツの目は、まだワタクシ達に狙いを定めていた」


「…そうか」


 目の前にいる彼は顎に手を置き、ただ考えを巡らせていた。少しの間の沈黙の後にジョッキを手に持つ。残っていた酒を滝のように飲み干すと、ジョッキを手に持ったまま席を立った。


「よかろう。我に任せたまえ」


「はっ、感謝いたします」


 彼は席を机の下に忍び込ませて部屋の扉へと向かう。扉の取っ手を握ると振り返らずに口を開いた。


「……夜に気をつけたまえよ」


「はい…?」


 彼は別れ際に必ず言う言葉がある。ただ一言『ではな』と。これは一種の癖のようなものだという。


 しかし、今夜に限っては違う言葉が発せられた。


 今まで彼からの別れの言葉で聞いたことのないものだった。


 夜…?夜とはなんだ。そのままの意味なのか。


 軽く咳払いをする。筋肉が強張っていく。部屋のインテリアを次々に見る。絶対に取り払われぬ不安が襲う。


 彼が出ていった後の扉は閉まっているだろうか。

 この部屋に隠し扉は無いだろうか。

 クローゼットに誰か潜んではいないだろうか。

 窓はしっかり閉まっているだろうか。


 …考え過ぎか。偉大な彼の目を盗んでこの部屋に侵入する事など不可能だ。


 そろそろ庭へ向かおう。ログラールめの泣きっ面を拝みに行くとしよう。そして必ずティエラをワタクシの手中に収めるのだ。


 剣を納めた鞘を持つ。心に湧き上がる情欲を抑えて部屋の扉を開くと背後の窓から、石を投げつけられたような音がした。


 瞬時に鞘から抜かれた剣を握りしめて振り返る。


 窓の外に誰かいるわけでは無い。誰かのイタズラだろうか。


 そうか。ログラールめ。ワタクシに勝てないからと姑息にも精神を削る手段に出たか。


 愛しのティエラを奪う為にそこまでするとは程度が知れる。


 となればヤツめの身体能力など大したことでは無いだろう。


 約束された未来を思い安堵していたその時。


『敵意』?


 一瞬の敵意だった。




 その敵意を感じた時には、もう遅い。

 誰がどこにいても。ほしがどこにあっても。

 ──私の距離だ。


 小さな炎に照らされた銀色の鎧を縫うように噴き出す鮮血。首に突き立てられた牙は、そのまま終着点に向かって噛み切られる。


 薄暗い夜のような天井に一筋の星が駆ける。

 赤い尾を引く、私に似た金色の流星。



 ――――――――――――



 光の無い路上で二人は向かい合う。

 影の繊維に包まれた流れるような光が目に入る。


 命の危機は確かに感じた。

 バスジャック犯に撃たれた時のような危機感や敵意はあった。

 でもあの時とは少し違う感覚だ。


 俺の身体の震えは夜風と共に消えていた。この感覚は、安堵だ。


 影の奥底に潜む赤く染まってしまった目を見て確信する。

 俺は迷うことなく彼女の名前を呼んだ。


「…ティエラ」


 ティエラはしなやかな手で黒いフードを脱いだ。あの時目に焼き付いた、夜を彩るプラチナブロンドの髪だった。


 ティエラは右手に持っていたナイフの辺り、その虚空を見つめる。


「私の手は、汚れています。この手を血で染めたのはこれが最初ではありません」


「うん」


「…私はあの時怖かったんです。血だらけの手であなたの手を握るのが。必死に自分を責めて、守って、責めて、守って」


 強く握り締められたナイフの先端から、少量の血が滴っていた。


「私とあなたを引き裂こうとするあの男への敵意と、あなたに素性を知られてしまう恐怖と、私を支えてくださったあなたへの恩義。何もかもが私を襲いました。その結果が…」


 ティエラは一呼吸置き、はっきりとした物言いで話す。


「だから…だから、私を隣に置かないでください。私はもうログラール様の隣にいられません」


 決意の念を抱いている事が俺でもわかる。それでもどこか涙を堪えているようで、苦痛に喘いでいるようだった。


「今回は全て私の責任です。出て行けというのなら今日にでも荷物をまとめて出ていきます。処罰を受けろと言うなら騎士団に自首しに行きます。…なのでどうか私に罰をお与えください!」


 俺のやる事は決まっていた。


 俺はただ、ティエラが救われたような表情を見せたあの一言を言うことにした。他に言う事はたくさんあっただろう。でも、今の俺にはこの言葉しか見当たらなかった。


 俺は学園の前で握ってくれた左手を差し出した。


「うん。俺のせいにしていいよ」


 ティエラの瞳が星のように輝いたように見えた。


「ティエラが向けてしまった敵意も、ティエラが抱いてしまった恐怖も、ティエラが感じてしまった恩義も。全て俺のせいだから」


 ティエラとの距離が縮まっていく。昼のような縮まることのない距離ではない。散らばってしまった数々の問いに、一つの小さな答えを導き出す。


 だから──。


「今は、全て、任せろ」


 彼女の力無い右手に張り付いていた罪には血がなくなり、いつしか冷たい地面に落ちるだろう。


 でも俺はその罪を投げ捨てる事なんてできない。ティエラと俺の罪だから、共に背負うことにしたから。


 俺は彼女が握っていたナイフごと掴み、左手同士で握られ合う。


 ティエラの閉じた目から流れる涙を見ると、彼女が握っていた手を離して俺の背中に回した。ナイフを持つ右手を浮かせて、左手は彼女と俺に押し潰されている。


「汚れ仕事は私の役目です…。なのでどうか、私を匿ってください」


 墨染めの道を背に揺れるプラチナブロンドの髪が俺の視界を覆う。


 今日は、星がよく見える美しい夜だ。

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