第2話 ああっ愛しのログラール

 思うように四肢を動かせない。金縛りに遭っていると思ってしまうの程の重さが伝わってくる。


 身体の節々に痛みが残っており、あちこちに包帯が巻かれている。なかなかにハードな寝起きだ。


 俺に抱きついてきた女性は大声で泣き喚いている。大量に流れる涙が包帯を濡らして些か鬱陶しい。


 手枷と足枷が巻かれていると錯覚してしまう程の重苦しい上体を起こした。


「もう…大丈夫だから」


「うっ、うっ、本当に…?」


「本当本当」


 ここは包容力のある笑顔でひとまず安心させておこう。これ以上は身体がもたない。女性は今も流し続ける涙を必死に拭いつつベッドを出た。


 安心させたとは言え現況が分かるわけでもない。他の人を呼ばせて状況を伝えたところで結局混乱を増やしかねない。こちらの女性がまた抱きついてこない事を信じて、聞いてみるしかないだろう。


 ベッドから離れたところを見た俺は恐る恐る視線を外しながら呟いた。


「あの…」


「な、なにかな?」


「ここはどこ?きみはだれ?おれはなにもの?」


「全然大丈夫じゃないじゃん!」


 彼女は再び泣いたと思ったら、その場に座り込み俯き始めた。


「うう…ログラール…」


 うわ言のように漏らす謎の単語に疑問に思った事をつい口にした。


「なあ、もしかしてログラールって俺のこと?」


 俺の問いを聞いた途端意を決したように立ち上がり、一度鼻を啜ってから喋り始めた。


「わかったわ!ぐすん。お姉ちゃんが一から全部教えたげる!」


「ざす」


 女性はベッドの周りをウロウロし始めて身振り手振り使って話した。


「あなたの名前はログラール・イ・シエント。で、私の名前は、ペルラ・イ・シエント。前みたいにペル姉って呼んでね!」


「わかったよペル姉」


 ペルラは腕を交差させながら官能的な声をあげた。豊満な胸部が腕に挟み込まれている。名前を呼ばれただけだぞ。なんだその反応は。


 荒々しい息遣いを整えつつ咳払いをしたペルラは話を続けた。


「ここはね王都ノルトゥーガ…の郊外でね、ああでも他の男爵家の中では割と良い屋敷と土地をいただいてて」


 ペルラの言葉を遮るように扉が叩かれる。


「どうなさいましたかペルラ様!」


「入っていいのかしら!」


 扉の奥から重低音が響く男性の声と凛とした女性の声が部屋を埋めた。立て続けにペルラが嬉々とした表情で応える。


「お母様もミゲルも入って!ログが目を覚ましたの!」


 ペルラの言葉を聞いてすかさず勢いよく開かれる扉。そこには燕尾服を着た初老の男性と空色のドレスを纏った黒髪の女性がいた。悪くない登場シーンだ。


 お母様…と思しき女性がいち早く駆け寄り、ペルラのように抱きついてくる。この抱きつき癖は母譲りか。


「ああっ愛しのログラール!無事で良かった!」


「それが、お母様。どうやら無事という訳ではないの」


 母は目を見開いて伸ばした腕で俺の身体を揺らす。ただでさえ具合が非常に悪いのにここまで揺らされたら会話すらできなくなるぞ。


「どこか痛いの!それとも風邪!やっぱりまだ傷口が」


「ちょ、落ち着いてください」


「奥様。ログラール様は病み上がり故、どうか冷静に…」


 ガチ恋距離から俺の手が届かないほど離れて両頬に自身の手を添えた。


「そ、そうね。落ち着くのよ私」


 母が何度も呼吸を整えた後ペルラが語り始める。


「この子、記憶が無いみたいなの。自分とみんなの名前も経緯も何もかも」


 記憶が無い旨を聞かされた母は口を半開きにしながらその場で崩れ落ちる。ミゲルという名の執事も言葉を失い身体を動かすこともできなかった。


「ペル姉。なんで俺こんな状態なワケ?」


「それはね、とある貴族のご子息達による無茶な決闘を止めるために飛び込んだあなたは…その、身体がぐちゃぐちゃに…」


 ペルラはそこまで言って顔を手で覆い始めた。どうやら見るも無残な姿に成り果ててしまっていたようだ。


 俺は布団の中と四肢の動作を確認した。


「身体がぐちゃぐちゃって言う割には包帯巻くだけで済んでるっぽいけど」


「その場にいたミアム様…王女殿下が縫合の治癒魔法で治していただいたのよ」


 王女殿下、魔術と言った日本では聞き慣れない言葉を耳にする。なかなかに苦労しそうな世界に来てしまったようだ。


 ため息をつく俺をよそに母はミゲルの方へ振り返る。


「そうだわ!ミアム様にログラールの容体を伝えて!」


「かしこまりました」


 ミゲルは一礼をした後、伸ばした背筋を保ったまま部屋を出ていった。執事は退場シーンも様になってるな。


 執事が退室した後も感心して扉を見続けていると、視界を遮るように母がベッドに手をついて顔を近づける。


「ね、ログラール。もう動けそう?主人にもご挨拶に行かないと」


 母の言葉を聞いた途端ペルラは身体に赤いオーラを纏い始めた。


 いや違う。俺だけがそう見えている。

 ペルラの表情や雰囲気は何も変わらない。ただ少しだけ拳を握っている程度だ。

 変わっているのは、俺?

 滲み出る『敵意』は俺を震わせて、ペルラは戦慄した俺に気づく様子も無くただ敵意を放出するのみだった。


 背後の敵意と殺気が反対の言葉を吐き出させた。


「い、いやあまだちょっとここにいようかな」


「あらそう?主人は朝早く起きてるから元気になったらご挨拶に向かいなさいな。あ、主人は部屋を出て左に進んだ先の突き当たりにいるわ」


『主人はあなたのことを心配してたわよ』


 脳内に轟音が響く。

 なぜこんなにも震えるのだ。この震えは…戦慄だけではない。武者震い、でもある。


 背後から伝わるエネルギーが体内に吸い込まれて身体全体に衝撃が走る。脊髄から全身に伝わる負のオーラが、筋肉から脳にまで染み渡る。さっきとは比にならない敵意を発して、今でもペルラは変わらない表情で俺の背中を…見ているのだろうか。


 母はいつの間にか部屋から出ており、残されたのは俺と敵意を放ち続けるペルラだけになった。閉じられた部屋に敵意が充満し、意識が再び飛びかける。


 俺は怪訝な顔で振り返ってペルラの名を呼びかけた。


「ペ、ペル姉?」


「どうしたのログラール。あ、包帯取り替えよっか!」


 身体を覆う赤いオーラは既に無くなっていた。部屋はおぞましい血のような色ではなく、夕焼けに照らされた綺麗な色に戻っていた。


 ペルラも同じように部屋の扉を開ける。終始俺は彼女の表情を見ていたが、先程の敵意など無かったような明るい表情だった。


 部屋の扉が静かに閉まった後、俺はつい独り言を発していた。


「どうなってんだ…」


 嫌に冴える頭と湧き上がる力に困惑しながら、剥いでいた毛布を顔まで覆った。動かしたくてたまらない身体をひたすら抑えて今は、眠るという選択肢を取らざるを得なかった。


 ――――――――――――――


 目を覆っていた黒い幕が上がる。窓から覗く紺色の空が目に入る。あのオーラに恐れ慄いた割にはぐっすり寝られていたようだ。


 先程解けそうになっていた包帯は全て新しくなっており、寝る前よりも巻いていた数が少なくなっていた。治癒が進んでいるということか。


 俺の部屋の中には誰もいない。ただ静寂流れる暗室の中に俺が横たわっている。


 ふと母の言葉を思い出す。きっと父に意識の回復を伝えてくれた事だろう。安心した父に俺からも挨拶するとしよう。


 胸元までかけられた毛布から身体を出して座り込む。前世よりも少し小さい手に違和感を感じつつも、小さい机の上に畳まれた服を手に取る。


 簡素な寝巻きを羽織った後にベッドのそばに置かれていた上履きを足に通す。


 無駄に広い部屋を数歩歩くと、深紅で木製の扉が目の前に立ち塞がる。そこそこ豪華そうな装飾が目につくが、開く時の音はどうにも耳障りだ。


 母が言うには部屋を出て左に進んだ突き当たりに父の部屋があるようだ。廊下へと一歩を踏み出す。


 しかし、なぜか少しだけ足取りが重くなる。既に健康状態まで回復していると言っても過言ではない。これは心や精神への負荷だ。


 一歩一歩進むごとにそれは大きくなる。廊下に響く上履きの軽い足音も、無邪気な残酷さを纏っていて物恐ろしさを思わせる。


 今は未知の恐怖を拭わなければならない。なぜならそう、父との初対面なのだ。ここはカッコよく、貴族らしく登場シーンを彩る所だ。


 突き当たりまではそこそこの距離があったはずだが、登場シーンの選択をしていたらあっという間に辿り着いていた。


 鼻詰まりの鼻に思い切り息を入れる。短い吐息をついていざ突入。俺は数回扉を叩いた。


「ログラールです」


「…入りなさい」


 軋む音が一切しない上品な扉を開けると、部屋全体が小さな照明器具に照らされていた。その中にひとり、長机の前で羽根ペンを動かす肩幅の広い男性がいた。


「おはようございます!お父様におかれましてはますま」


「二度とあのような真似はしないように。お前は男爵家の次期当主になり、やがてはこの家を上位爵位に押し上げる使命を」


「ちょちょちょ、待ってくださいって。俺が言うのもアレですけど心配とか労いとか無いんですか。一応怪我人っすよ」


 父は動かしていた手を止めて、ゆっくりと顔を見上げる。俺を睨みつけながら先程とはまるで違う声音を出した。


「キサマ、誰だ」


「はい?ログラール、ですけど。聞いてますよね、記憶喪失って」


「ああ、聞いている。それで、ログラールの中に入ったのは誰だ」


「な、何を言って…」


 暗くて静けさに包まれた部屋のそこかしこに俺の視線が彷徨う。父と俺との間に生まれた距離は物理的には近かったはずなのに、精神的には依然として離れているようだった。


 父は再び羽根ペンを動かし始めて沈黙を破った。


「まあいい。今日から登校日だ。治っていようがいまいが学校に通ってもらう」


「は、はいいいいいいいいいい?」


「場所に関しては問題ない。メイドのティエラが案内する手筈になっている。自室に戻りなさい」


 なぜこの世界に来て、身体がぐちゃぐちゃになったばかりで、この世界の基礎知識すら無いのに学校に通わなければならないのか。


「が、学校てあの」


「自室に戻りなさい」


 俺の言葉を聞く気すらない父は俺を見ることなく紙面に釘付けになっていた。


 父の耳に聞こえない程度の声でため息をつく。


「失礼しました」


 疑問で満たされた心を覆うような暗い廊下に足を踏み出して、手から離れたドアがひとりでに閉まる。

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