第三幕

 エミル少佐の勝利は、単なる偶然に過ぎないと、グレットは、そう思うことにした。類を見ない戦術と死者数の少なさに注目するばかりで見落としていたが、砦一つ落とすのに一カ月は、掛かり過ぎだろう。使用した航空機や兵器の費用だって他の隊と比べれば看過できないほどに高額だ。こそこそと動くのではなく、もっと早くに他中隊と協力し、白兵戦を仕掛けていれば短期決着もできたのではないだろうか。あのような臆病者は、帝国陸軍の華々しい歴史を築く上で恥さらし以外の何者でもないと、グレットは、エミルに対して悶々と不満を溜め込んでいた。

 いつか痛い目を見るに違いない、しかしグレットの見立てに反し、エミル率いる第八中隊は、快進撃を続け、一年も経つ頃には作戦目標である港町近郊の砦も残り僅かとなっていた。さらにグレットへ追い打ちをかけたのは、陸軍がエミルを評価し、大隊の指揮を執らせるべく大佐へ昇任させようとしているという噂が流れてきたことだ。そうした日々の中でグレットが抱え続けていたある疑念が、確信へと変わる。エミルの作戦成功は、彼の指揮官能力にあらず、兵隊の優秀さにあるのだと。その見解は自軍への慢心とも思えたが、グレットにはそれ以外の理由が思いつかなかった。

 だがそれは、まだ仮説の域を出ていない。自らが指揮を執るようなことがあれば、それを証明させられるというのに。中尉という階級の低さに歯痒い思いをしていると、ある冬の日、その機会が巡ってきた。

 大陸の冬は、ロギヌスの気候と若干異なり雪が降らない代わりに雨が多い。その日も気候通りに降った雨は、作戦地周辺の大地を濡らす。常緑樹の楠木が生い茂る森の中は、曇り空ということもあり光が届かず、じめじめとしていた。雨が届かない分まだマシだと、グレットは自分に言い聞かせながら歩き続ける。臨時とは言え、今や半中隊の指揮官を務めている自分が弱音を吐くわけにはいかなかった。

 第八中隊は、偵察任務に際し、エミルの指示によって二分割され、現状グレットが半中隊の隊長を務めている。激しい戦闘により中佐クラスの将校も大勢死んでいる中では、今やグレットも経験豊富な将校と判断して差し支えなかったのだろう。

 黙々と歩き続けていると半中隊は、偵察目標である砦へ辿り着いた。グレットのサインで匍匐態勢に入り、同盟国から提供された砦の航空写真と見比べつつ、敵戦力を確認する。連邦軍の砦は、補給が済んでいないのか備え付けの兵器がこちらの想定よりも、少ないように見えた。偵察する限り、雨が降っているせいか、警備兵の士気も随分と低そうだ。この天候の中、まさか敵が迫っているとは考えていないのだろう。そう思っている矢先、グレットへ一区隊の若い少尉が声を掛ける。「これは好機なのではありませんか」

「私もそう思うがエミル少佐は、偵察に拘っておられた」

 命令違反は、四大義務である上官への服従を破る行為であり、明らかとなれば即刻軍法会議ものだ。しかし若き少尉は、自信溢れる物言いで答える。

「偵察とは言え、丸腰ではありません。その気になれば砦の一つや二つ、我々で事足りるはずです。何せマヌエル砦以降我らは、常勝無敵。負けるはずがない」

 話を聞きながら考えている内にグレットは、彼の言っていることが正しいように思った。噂ではあるが、連邦軍の弾薬は質が悪く雨に濡れれば湿気で発砲できないという。他にも様々な憶測が自分の脳裏で飛び交い、冷静さが失われていくのを感じつつもグレットは決断する。思わず声が震えた。武者震いだろうか、グレットはそう思った。

「作戦変更だ」

 そして半中隊は、小銃を頼みに雨の中、機関銃が備え付けられた砦へ突撃を決行。そんな彼らを襲ったのは、激しい機関銃の弾幕だった。握り締めた小銃がこんなにも心もとないなんて、己の慢心に気付いたグレットは重傷を負いながら撤退命令を出し、エミル隊と合流すると生き残った僅かな兵士と共に衛生隊へと運ばれることに。グレットは、担架に揺られながらいたずらに兵を殺した責務に涙が浮かんだ。恐らく懲戒免職は、免れないだろう。

 しかし翌日の晩、目覚めたグレットが軍法会議に掛けられることはなく、一番に彼が耳にしたのは、エミル少佐の話だった。

 深い夜の中グレットは、包帯で固定された右腕を抱えエミルのテントへ飛び込む。そこにエミルの姿はなく、周辺を探し回ってようやく見つけたのが川原だった。

 川の水面にたゆたう月光の手前、原っぱの上で一人エミルは、腰を下ろして何やら独り言を呟いているようだった。その背が丸まって小さく見えたのは、きっと気のせいではなく自分のせいだろう。どのように声を掛けるべきか迷って、ようやく振り絞った声は、思いのほか小さく弱々しい。「エミル少佐」幸いにも声は、届いていたらしくエミルが振り向かずに反応した。

「グレット中尉か……どうした」

 酷く掠れた彼の声に言葉が詰まりそうになる。だがグレットは言わずにいられなかった。

「昇任が取り消しになったのは事実なのですか。だとすればそれは私のせいです」

「本当のことだ。だが君には関係ない」

「そんなはずがありません! 私が命令違反を犯したからだ!」

 全身が燃えるように熱かった。たった一度大きな声を出しただけなのに心臓が激しく脈打っている。グレットは、エミルに情けをかけられたのだと思った。だがそれは潔いグレットにとって恥でしかない。自分の命令で多くの部下を殺してしまったことも、妬み続けた上官に尻を拭われたことも、責任をとらなければ気が済まなかった。これではまるで自分の後始末もできない子供のようだと、あまりに自分が情けなくて。

「私は、ここで責任をとって自決いたします」

 その情けなさの塊を言葉として吐き出し、グレットは俯いた。夜の風が熱くなった頬を撫で、それから川原の草を揺らす。そんな沈黙の中でグレットは、エミルの返事を待った。足音が一つ、二つと聞こえ自分の前で止まる。

 そして一瞬、強い衝撃が顔面を襲い身体が草原に倒れた。

「馬鹿なことを言うんじゃない!」

 見上げた視界の中に顔を真っ赤にしたエミルが立っている。自分は、怒鳴られ頬をぶたれたのだと遅れて理解し、どういうわけか目頭が熱くなった。涙は流すまいと唇を噛み締めると視界がぼやけてしまう。「私は、本、気です」

「君が死んだら、君の家族はどうなるんだ」

「少佐に私の何が分かるんです。部下を犬死させた責任をとらせてください」

 こちらを見下ろすエミルの瞳が揺れる。そして紡ぎ出された言葉は、心なしか柔らかな声音だった。

「君には、エレンゲルの街に家族がいる。病気の母と不景気に悩む父だ、二人を支えるために厳しい士官学校を卒業して軍人になったんだ。立派なことじゃないか」

「どうして、それを……?」

「自分の隊員の身上は、全て把握している……全員が大切な仲間だ」

 エミルは、当然のようにそう言う。しかし、そんな将校と出会ったのは彼が初めてだった。それもそのはずで帝国陸軍士官学校では、下士官のことをあくまで駒として認識するよう教えられてきたからだ。エミルのことは、他の将校と比べても変わり者だと思っていたが、彼が一兵士に人情をもって接していたのならば、その変人ぶりにも納得がいく。納得してそれから思い出したことは、戦を重ねるごとに憔悴していく彼の姿だった。

グレットの胸にぐっと熱いものが込み上がってくる。

「だから、死ぬなんて二度と口にするな」

 差し出された手に触れるとそのまま引き起こされた。その手は、指揮官のものとは思えないほどにごつごつしている。常日頃から鍛錬を怠らず、戦場を生き抜いてきたものの手だ。思えばエミル少佐は、指揮官でありながら常に先頭に立っていた。

 仲間を守るためにそうしていたのだろうか。

 傍で見た少佐の顔は、目元に深いくまと数えきれないほどの切り傷があった。

 グレットは、堪えきれず涙を流してしまう。それから壊れたように抑えつけていた感情が溢れ出してしまう。

「今日、若い少尉が自分を庇って機関銃に撃たれました」

「それで?」

「他にも大勢、自分を守るために死にました」

「それで?」

 吐き出すと言葉は、濁流のように止まらなかった。そんなグレットにエミルは、終始淡々と答える。しかし話し終えた最後に彼は、グレットの目を見て強い口調で言った。

「そのことを決して忘れるな……必ず生きて帰れ」

 その夜グレットには、心に誓ったことがある。この人に一生付いて行こうと。

 だがその願い叶わず、エミルは一月後のネルバリン砦の戦いで命を落とした。

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エミルハーフストンのブローチ 西谷水 @nishitanimizu

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