第二幕

 青々とした空が広がる昼下がり、ラミイの母親であるエマ・フィールドは、陽の射し込む窓際から離れ、調味料などがごちゃごちゃと並ぶダイニングテーブルで新聞を読んでいた。そうしたのには、春先の空気が肌寒いという理由もあるが、窓際で干している洗濯物を通り抜けてじめじめとした風が肌にまとわりつくのが不快だったのだ。洗濯物さえなければ、あの場所で一日中眠ることが老年のエマにとって日課だった。しかし、そんな些細な非日常などさておいて今日の彼女は、もっと大きな変化が起きるのではないかと、何の根拠もない予感を抱いている。先ほど注いだレモネードの氷がからりと音を立てて溶けた頃、車椅子のラミイが膝の上に小箱と名刺を乗せてリビングへ戻ってきた。

「軍人さん、だったろう」

「エミルでは、ありませんでした」

 ラミイは、淡々と答えてテーブルの上に小箱と名刺を並べる。目の前に置かれた品と娘の沈んだ声は、不思議と今日のエマにとって生活における波紋のように感じられた。エマは、長年の子育てと人生経験によって自らの感性が繊細であることを知っている。娘が夫を亡くし、その事実を三年経った今も受け止められず、こうして帰りを待ち続けていることも肌を見れば分かる。母親から見た身びいきを抜きにしてもラミイは、美しい女性だが夫のエミルが生きていた頃は、もっと、ミルクのような温かみのある肌色をしていたはずだ。アメジスト色の瞳だって、もう少し輝いていたに違いない。

 朝になると娘は、新聞を見て何処かでエミルが活躍しているのではないかと期待する。そして夜眠る時、娘は毎晩泣いていた。そうやって娘が悲しみの淵で生きている姿をエマは、三年間も見守っている。見守ると言えば聞こえは良いものの、年老いた自分に出来ることは、ただ傍にいることだけだ。こんなにも娘が悲しむくらいなら、エミルとの結婚を認めなければよかったと、的外れな憎しみを抱いたこともある。気の病んだ人間との生活は、心の強いエマさえも蝕みかけていた。

 それでもエマは、母親である。気に病む姿など見せず、気丈夫に振舞うことを欠かさない。自分も夫をはやくに亡くしたが、女手一つで足の不自由なラミイを育て上げたのだ。足が動かないからと言って甘やかすことなく、そして彼女が大人になって何処へ嫁いだとしても恥じないよう厳しく躾け、そうして彼女は、見目麗しく花のような女性となってくれた。

 ラミイが落ち込み続ける姿を見るのは、苦しくて辛い。

けれどエマには、ラミイが生きてくれているだけで幸せだった。

 けれどエマには、そんな幸せに甘んじてはならない理由があった。

 五十八歳になる彼女は、自らの老衰を感じている。もう少しだけ傍にいてあげたい、その想いだけが彼女の生命を引き留めていた。

「ラミイ、その小箱と名刺は?」

 エマがそう言うとラミイは、小箱がエミルから贈られた物であることと、名刺がそれを届けてくれた彼の補佐官のものだということを話してくれた。それからラミイが小箱を手に取り中身を見ている間、エマは名刺を確認する。

「グレット・ヴェルメイル。ヴェルメイル魔道具製作所の社長かいね」

 黒の短髪を見て勝手に夏季休暇で街を訪れた軍人だと思い込んでいたが、そうではなかったようだ。エレンゲルに数多く存在する小さな町工場の社長あるいは、年齢からして跡継ぎだろうか。いずれにしてもあの精悍な顔つきからは、軍服を纏い軍靴を踏み鳴らす姿しか想像できなかった。ラミイをもらってくれたらと考えもしたが、これではエミルの姿がちらついて娘は、辛い思い出に縛られてしまうかもしれない。

「お母さん、見てください」あれこれに思考を巡らしていると、ラミイが話しかけてきた。エマが見ると白い洋服の襟首に彼女の瞳と同じ色をしたブローチが輝いている。どうやらそれがエミルからの贈り物らしく、心なしかその声も弾んでいるように感じられた。

「とても綺麗……」

 甘い吐息を漏らすようにラミイは、呟いて微笑みを浮かべる。娘の笑みを見たのは、いつ以来だろうか。エマは、記憶を呼び覚ます。「三年ぶりかねえ」

 予感。何かが変わろうとしている予感をエマは、信じようと思った。生きることは、変化と変質の連続だ。いつまでも悲しんではいられない。エマは、再び名刺を見て言う。

「ラミイ、次の墓参りは、グレットさんと行きなさい」

 当然、ラミイは首を傾げた。それ以前に彼女は、エミルを亡くして以来めっきり外へ出なくなっている。エミルの両親が何度かお見合い相手を連れてきてくれたが彼女は、夫の帰りを待つばかりでまともに取り合おうとしない。今年で彼女は、二十八歳になるというのに。

「お母さん、私は墓参りには行きたくありません」

「どうしてだい?」

「それは……その」

 ラミイだってエミルが死んだことくらい分かっているはずだ。しかし、彼女の心の中では、まだ彼が生きているのだろう。その存在が彼女の時を止めている。その思い出が彼女の幸せを邪魔していた。ラミイには酷なことだが残念ながらそれは事実だ。

「補佐官なんだっけ?」

 エマは、思い出したように呟いてこくりと頷いたラミイを見つめる。彼女は、俯いて物憂げにブローチを眺めていた。

「エミルの話も、聞けるかもしれないよ」

 言うとラミイは、一瞬だけ視線をあげて口を開きかける。エマは、それを見逃さず席を立つと黒電話の前へと向かった。電話なんて魔道具を使うことは、無いだろうと思っていたが長生きすれば思わぬところで機会が訪れるらしい。

 エマは、名刺とダイヤルを交互に見て慣れない手つきでダイヤルを回す。エレンゲルの街に張り巡らされた魔法石の電線は、すぐさま電波を発信し、数回のベルが鳴って受話器の向こうから声が聴こえた。

「お世話になっております、ヴェルメイル魔道具製作所のグレット・ヴェルメイルです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る