日誌005

「ここが地下最深部の独房……」

「今は独房ではなく単独室と呼ばれているわ」

「無間の無明を営々と抱え込む常夜の巣、第1637房さ」


ヨナハとヒバナと私の三人は、イルミナが座する牢櫃ろうひつの前に来ていた。法外に分厚い鉄扉の向こうにいったいどんな化物が居るというのか、我々の哲学では思いもよらない。


ヒバナが鍵を挿して回すと、錆びているのか少し軋んだ音を立てる。室内の暗闇を、廊下の暖色灯が侵していく。深淵の御前、我々はの怪物の見参げんざんった。


「いらっしゃい、待ちくたびれてたよ」


軽い歓迎の声が飛んで来た。橙色が彼女の姿を朧に照らす。天井から垂れ下がった一対の黒い鉄鎖は今さっき片腕分だけ外されたようで、フラフラと揺れている。人ひとりが通れる程度の開門では晦冥かいめいからこの部屋の全景を暴き出すには未だ足りない。ヒバナは更に戸を開く。


カラリと、人間の腕の骨━━尤も、それが橈骨とうこつ尺骨しゃっこつであることを知っていたのは医者のヨナハだけだったが━━が床に転がってきた。


「行儀が悪くてごめんよ、お腹が空いてたから」


地獄の扉は開かれた。


「ようこそボクの檻へ。歓迎するよ」


口許に血の紅を差した隻腕の絶望がこちらを覗いている。己の腕を喰らって仕舞う程の饑餓きがを抱えた暴食の権化、1637号。目を細め嗤笑ししょうを浮かべた造作には、どこか見覚えがあった。


ヒバナはあまりの異質な光景に扉を開くことを辞めた。血腥ちなまぐさ暗澹あんたんの最奥が恐ろしいのか、大量の汗をかきながらイルミナを見据えた侭で動けずにいた。


「そう怯えなくても、取って食ったり……しない保証はできないかな」


腹が鳴る、最悪とも言える時機で。


「あははっ!冗談だよ!」


突如、柏手が一拍打たれる。先程まで無かったはずのイルミナの右手が……再生している?あるいは初めから後ろに回し闇に隠していたのか。理解できない光景に場は水を打ったように静まり返る。残響が鼓膜の奥で痛いほど鳴っていた。


「うーん、ウケは今ひとつか」


今この瞬間、笑っているのはイルミナだけ。

はっきり言って薄気味が悪い。


「私たちが何をしに来たか、判ってる?」

「ボクと仲良くなりに来た訳では無さそうだ」

「そうね、その点においては間違いない」


ふと、イルミナの姿が消えた。


「ボクを殺しに来た?」


背後、それも私の耳元で囁いている。尋常一様でない高速度での移動。振り向くと、既にそこに彼女は居なかった。


「タダで殺されてはつまらないからね、少し足掻いてみるよ。ボクなりのやり方で」


檻の扉の前で向き直り、イルミナは三人に向けて宣言した。


「この中で生き残った一人に真実を教えるよ。このに満ちた牢獄の真実を、ね」


そう、これは逃走劇だ。

いつかは鬼の手に肩を掴まれて終わる。

遅かれ早かれあまねく生命が辿る道の涯。

死という名の用意された終止符ピリオド

だから、ボクはが来るのを待っていたんだ。


「少し足掻く……?冗談じゃない。この場で1番強いのはあなたよ」


ヒバナが剣呑な視線を向ける。しかしその敵意は、殺意と呼ぶには些か鈍い。そしてイルミナにはそれら全てが織り込み済みだった。


「時間稼ぎかな」

「だとしたら?」


一気にヒバナの懐に入り込んで手刀で両断する。イルミナの弾丸の如き速度は、自身の肉体の崩壊さえ意に介さない。そしてそれは、


「君の豊満な肢体は可食部位が多そうだからね。出来れば一番に仕留めたかった」

「っ!」

「逃げるぞレーナ!」


一目散に遁走する二人を意にも介さず、イルミナはを始めた。


「人の身に神は宿らない。『名にし負わば』と言うのかな。いやしくも神を僭称せんしょうするのなら、血と肉と骨ヒューマンエラーは除かなければならない。待っててね、無血で無謬むびゅうボクのための女神様デウス・エクス・マキナ……」


役者は勢揃い、あとはカーテンコールまで演じ切るだけ。天国にも地獄にも繋がらない、無限の夢幻の中で。


次回1637の3

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