日誌002

 先輩看守に連れられて刑務所最奥の独房に来た。ここに0087号が居るらしい。


「ワタシがついて行けるのは、ここまで」


 どこか意味深な顔をしていたが、あまり考えないことにする。


「入るよ、0087号」

「あらあら……久し振りのお客様ね」


 一目で判った、毒婦。さすがこの刑務所の最古参にして刑期570年の女囚。廊下から弱々しい橙色光が届くばかりの暗い部屋、そのさらに一等薄暗い奥の壁に凭れている。放り出された四肢だけが蛍光漂白したように浮き上がって見えた。手足には鋼鉄の枷が嵌り、鎖は壁につがっている。


「その傷……」


 私の顔に向かって手を伸ばすと、0087号の細腕に繋がれた肉厚な鎖の駒がガラリと重厚な音を立てる。届くはずもないのに、彼我の距離を詰められた気がして一歩後ずさる。気圧されたとでも言うのか。


「こ、これは、昨日猫に引っ掻かれた傷、気にしないで」

「あら、かわいい」


 明らかに苦し紛れの言い訳。それを彼女は慈母の笑みを以て迎えた。0087号の恐ろしさは単純にして明快。相手を依存させ、堕落させる傾城傾国の才ファムファタール。同性からもこれほど魅力的に見えるのだ。異性ならば一瞥の下、恋に落ちるだろう。

 ……つくづく面倒だ。


「それで、何用ですか?」

「私は昨日からここに赴任した看守。以後よろしくね」

「そうですか……よろしく、


 刑務所ここでは看守に名前は必要ない。個人名で呼ばれることは無いから。用件はこれだけ、簡素で事務的。


「じゃあね、失礼する」

「あの……」

「なにか?」

「待ってます……また、来るのを」


 少し寂しそうな別れ際の顔は、この場を去る罪悪感さえ抱かせた。


「早く出られるといいね」


「さて、と。コレで気を付けるべきウチの二大囚人には会えたね。では引き続き業務を……と言いたいところだけど。キミに一つ、話があるんだ」

「何でしょうか先輩」

「囚人番号0087号って、実はワタシなんだよ」

「そうですか、先輩もユーモアを解する側で安心しました。私も好きですよ、そういう諧謔ジョーク

「ふーん、割と驚かない?」

「こんな最低の刑務所でマトモに新人教育なんてしてくれてる時点で充分不自然ですよ、先輩は」

「あはは、それもそうか。完璧かな」

「それにしても囚人なのに、随分とご自由ですね」

「まぁね、本物の『先輩看守』はワタシの言いなりだから。さっき会ったでしょ?本物」


 あの毒婦、いち看守の演技だったのか……

 ここにはつくづくマトモな人間が居ないな。

 看守が檻の中に繋がれて、囚人が檻の外で自由を謳歌している。

 まるで逆転している。だからこそ……面白い。


「堕落も甚だしいですね、ここ」

「キミも十分してるよ」

「光栄ですね『ハナちゃん』に褒められて」

「ふふっ……そっか、ミナコとはもう会ってるんだね」


 何の纏繞てんじょうも束縛もなく、自在闊達に振る舞うハナ。それは先程の『本物の先輩』とはまた違った魅力を呈していた。ふと、彼女が私の方へ歩み寄る。


「でもね、キミがこの刑務所で初めて出会ったはこのワタシだよ。『初めての相手』は大事にするべきだと思うな?」

嫉妬ヤキモチですか?先輩って結構かわいいとこありますよね」

「嫉妬とは……少し違う」

「では、何だと?」

に手を出したことが許せない、かな」

「強欲ですね、先輩」

「若くありたい、美しくありたい、様々な銘柄ブランドで自らを着飾りたい。欲望こそが女をより一層美しく魅せる魔法、覚えておくと良いよ。キミは無欲過ぎるから」

「そういうのは……疲れるので」

「まぁそれも一つの解だ、尊重する」

「ありがとう、ございます……?」

「でもやっぱり、キミがなのは勿体ないや。だから……」

「……だから?」

「そうだ、看守さんにワタシからのお遣いを頼まれてもらおうかな」


 囚人が看守をだなんて、横暴極まれり。

 けれど今は、何故かハナの提案に魅力を感じていた。


「何処へ行けばいいんですか?」

「それは……」


 ハナは要件だけを手短に話すと、行くところがあるからと歩み去ってしまった。


「じゃ、ミナミによろしくね〜」


 そして私はまた宿直室で独りになった。


 雑記

 今日は何処かが引っ掛かる一日だった。

 決定的な何かを見落としている、そんな不安。


 以上。


 次回0373

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