第28話 また逢いたい6

 大腸癌なんだよ。自覚症状は無かった。ずいぶん前から真っ黒な便が続いていたが、それが血便だったらしい。痛みもなかったし、もう手遅れだった。


 このひと月は、ほぼ寝たきり状態になってしまったので、ヘルパーさんを頼んで介護をお願いしているんだよ。


 娘には話していないさ。心配性だからね。医者の先生にも娘には絶対に話さないように頼んであるから大丈夫だよ。


 先月、一階の窓際にベットを移動してもらったので、庭の桜の木が見えるんだよ。里佳を失ったときに、私が植えたんだよ。


 35年経って立派な木に育ってくれた。いま満開の桜が目に眩しいほどだよ。里佳に会いたい。また会えるよね、きっと。


 いつも介護してくれるヘルパーさんに頼んで窓を少し開けておいてもらったからね。桜の香りが窓の隙間から部屋に流れ込む。


 桜の咲く頃に初めて里佳に出会い、二人で桜川の公園によく出かけたよね。私の手にそっと小さな手を絡ませて、いつも二人で歩くのがとっても好きだった。


 何回、いや何10回もあの公園に行ったね。私も里佳も一番大好きだったあの公園。もう一度だけ行きたかったな。大好きな里佳と手をつないで・・・・・

  

 心臓の鼓動が少しずつ弱まってくる。意識が穏やかに、安らかに、空気の中に溶けていくようだ。身体が綿のように軽くなって、ふんわりと空中に浮かんでいくようだ。


 身体のあちこちの痛みも消えてしまった。

 身体中が温かさに優しく包まれていく。


 空中に浮かび、下を向くとベットで眠るように横たわる自分の姿が見えた。天井も屋根も通り抜け、はるか下に慣れ親しんだ二人の家の屋根が見える。


 家々の屋根が夕陽に輝いている。街が見える。駅も公園も、小さいときにはよく水遊びをしたり泳いだ桜川が見える。

  

 初めは慣れなかったが、意識を向けるとその方向に自由に飛んでいけるようだ。


 最近は水量もわずかであり、汚れていた桜川が、まるで昔のように清々と水をたたえて、ゆっくりと流れている。


 夕陽に煌めく静かな川面が、鏡のように夕暮れの紅い空を映していた。満開に咲きほこる多数の桜の木々が、 川沿いを美しく彩っている。


 土手のあの小さな公園に毎年心を和ませてくれた懐かしい桜の木が見える。木の真上までゆっくり飛んでいった。


 桜の木の下に女性がひとり佇んでいた。

 見間違えるはずがないよ。里佳である。


 公園にそっと舞い降りて、ゆっくりと桜の木の下に歩いていった。


 長い黒髪、微笑む優しい大きな瞳。

 桜の下で若いままの里佳が微笑んでいる。


 まるで私がここに来るのを、ずっとずっと前から、待ってくれていたように。


 『里佳・・・・・』

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