第38話 それからの世界

 ――愛していると言えば。言うことが出来ればどれほどよかっただろうか。



 その老人は何も無くなってしまった、ただの荒野でぼんやりと空中を眺めていた。その視線の先には何もないように見える。空は血のように赤く染まり、静寂は不気味に辺りを包んでいた。


「もう、どれほどになるだろうね」


 しわがれた声が響く。その声を誰も聞くことはない。ただ風に流れて消えてく。


 乾いた目には何も浮かんでいない。ただ、悲しい色が灯っているように見えた。はぁと軽く疲れた様に息を吐く。それすらも苦しい。そんな様子にも見えた。


「あなたがこの世界を去ってから。いろいろな事があったよ。愚かにも資源を巡っての戦争。略奪。国は潰れて生まれ行く――いや。そんな事はいいね。きっと君は知っているのだから。ナイもシロトも。ロナももういない。君を待つのは俺だけになってしまったよ」


 やはり誰も答えることはない。周りから見たらただのおかしな老人に見えるだろうか。


 カツンと杖を叩いて老人は辺りを見回した。深く刻まれた皺は若い頃の面影は一つも窺うことは出来なかった。


「ここはすべて変わってしまったね。君の父親も賢者様も消えてしまった。美しい庭も。塔もなにもない」


 あぁ。と小さく呟いてから右手を虚空に伸ばした。何かを求めるように。その手の中には流れ星が落ちる。


 かつて見た――。はらりと涙が頬を伝った。


 願うことは。何度だって願う。何年だって願う。死ぬまで願うだろう。いつか目覚める。その希望がある限り。


「貴方に会いたい」


 老人は声を上げていた。静かな慟哭。願いと共に。『会いたい』と風に言葉は流れていく。


「メリル――」


 名前を呼べばふわりと応えるように風が頬を掠めた気がした。


 『大丈夫だよ。独りになんて絶対しないから』


 小さく響く子供の声に顔を上げればいつか見た小さな少女の姿がある。いつか生かしてくれた。死にそうだった心を引き上げてくれた少女の姿。ひらひらとその薄汚れたスカートの裾が揺れていた。


 くるりと踵を返し走り出していくのを老人はおぼつかない脚で追いかけていた。必死に。かつてそうした様に。


「めりる、ちゃん。まって――まってよ」


 まるで幼子の様な舌足らずな言葉ということに老人は気づいていない。必死に手を伸ばしても届かない少女の背中はいつ死か消えて、がくりと膝を落していた。


 まってよ。


 その声は誰にも届かない。そのはずだった。


 細く折れそうな老人の背中。それにポンと優しく手が置かれた。視界の隅に映るのは見慣れた髪色で。


 老人はまだ自身が夢を見ているのかと考えてぼんやりと頭を上げていた。


 それでもいい。と心のどこかで願いながら。


「何してるの? アシッド」


 別れた頃のまま。あの時の姿のままにその少女とも青年とも言えない女性が立っていた。まん丸な双眸で見上げればにっと笑う。


 かつてそうであったように。


「メリル――ちゃん?」


「うーん? ちょっと年をとった? アシッド」


「俺が分かるの?」


 当たり前だと笑って見せた。そしてア湿度に向けて軽く手を伸ばす。それは『いこう』と言っているようでもあった。


 たじろぐ老人――アシッドに構わずぐっとアシッドの身体を引き上げた。それはアシッドの身体が軽かったのか、メリルの力が強いためなのかは分からなかった。


「私はもう魔力は持っていないんだ。だから人として生きれる。憎むのも、呪うのもこるのも嫌だけど。それも私だし――ね。一緒に生きてくれるよね?」


「でも――」


 出来れはそうしたかった。


 しかしながらどう考えても自身の寿命が月欠けていることは自分自身でも分かることだ。それはきっとメリルだって気づいているだろうに。


 今度はアシッドが残す番なのかと歯噛みするしかない。自分たちは交わることは無いのだと。それでも生きてくれて――会えたことに感謝するのではあるが。それ以上は高望みだろう。


「私の魔力はもうないけど――。アシッド。私が上げたプレゼントはまだ持っている?」


「え? ああ」


 言われて思い出したそれは、未だ肌身は出さず持ち歩いているものだ。小さな小瓶の中には時が止まったような白い花。何年経っても枯れることなく、瑞々しく在り続ける。そしてアシッドはそれを誰かに見せることはしなかった。


 それを見てメリルは目を細める。それはどこか嬉しそうであった。取り上げるとポンという軽く音を響かせて蓋が開く。


 花弁を取って掌に大切に乗せた。


「たった一つ。たった一度。私が使える魔法をかけたの。いや――かけてもらってたのかな?」


 驚くことに淡く輝く光はここ数年見ていない温かくて太陽の光の様な魔法の光だ。メリルはそれを口に含むと――飲み込んだ。それにアシッドの制止は間に合わない。


 ふうっと息を付いてからちらりとアシッドを見つめた。奇行は見慣れたものだが――意味が分からない。出来れば墓迄と持っていこうと決めていた物だ。開いた口が塞がらなかった。


「メリルちゃん?」


「触れていい?」


 ぺたりとかさついた肌に温かな手が触れる。昔から何一つ変わらない。『がんばったね』と言う声に泣きそうだった。年甲斐もなく――いや。もはや歳など会った瞬間から忘れていたのだが。


 一体どれほどの間そうしていただろうか。さあっと風が抜き抜ける。当事者であったため、この時アシッドは気づいていなかった。


 どれほど自身の姿が変わっているかなど。いつかの精悍で美しい青年の姿に戻っていたことを。


 目の覚める様な美しい男女の姿が荒野に在った。


 満足そうにメリルが笑う。メリルに取って別に姿がどうだって良いのだ。ただ、共にあれれば。ただそれだけのためにアシッドの姿を戻しただけだ。


 それはとてつもない我儘だが――今更だと笑うしかない。


 世界すら壊してしまったのだ。死ぬときは地獄に落ちるだろう。だけれどそれまでは幸せになりたかった。


「さぁ、いこうか」


「メリル――。俺でいいのか?」


 今更な質問にメリルは笑う。不安そうな双眸にメリルは踵を浮かせて頭を撫でた。アシッドは未だ自身がどうなっているかは分かっていないらしい。


「もちろん」


 少し考えてアシッドは口を開いていた。真摯な双眸がメリルを捉える。


「愛していると言っても? 愛していたと言っても?」


「知ってるよ。今更だよ」


 いくら何でもメリルにだって分かる。分からなければここにはいないのだ。眠っている間――世界を見れなかった訳ではなかった。この場所に毎年来ていた事も知っている。


 それはとても長い時間だった。メリルとてそんな事とを願っていたわけではない。ただ単に幸せになって欲しかっただけだ。


 メリルはこの人が大好きだった――。だから。


「貴方を幸せにしたいんだよ。私」


 ゆるりと唇を寄せる。


「貴方を一人にはしないよ。もう二度と――そう誓ったんだ」


 抱き留められた背中に力が籠る。二人の世界。その様子を昇った白い月だけが見つめていた。

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聖者の宝石 @stenn

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