第31話 魔術
空間転移。それは今の技術で――というより前世界の技術では難しいものだ。であるので現状誰も成しえることができないものだった。大量の魔力と制御技術を必要とする。下手をすればこの世界が壊れるほどの危険なものでもあった。
「私は賢者でね。伊達にそれを名乗っていないんだよ」
それにしては顔色が悪く。座ったまま立ち上がれないみたいだ。手には白湯が入れられたカップが水面を揺らしながら持たれていた。
元気になる薬を――。と言えば『嫌だよ』とにべもなく言われたのは悲しい。まぁ。ロナがその後で飲ませていたのだけれど。楽しげだったのは復讐か何なのか。いや。心配していたのだと信じたい。
多分。
白湯を少し口に含んで喉に流し込んだあとでふうっと賢者は息を付いていた。
地下の祈祷所。現在そこにはアシッドと私。賢者と――出会った老人の姿があった。ロナは空気を読んだというより追い出され小部屋で勉――聞き耳を立てているだろうか。グスタ他は外で見張りをしている。ついでにご飯の確保と調理も彼らの役目だった。
「ごめんねぇ。一人しか呼べなかったんだよ。私も年を取りすぎて。一応『テアドロ君』からも搾り取ったのだけど足りなくてね」
少しだけ色味が鈍くなったような気がする魔法石をポンと賢者は老人に石を軽く投げた。それを慣れたような動きで掴む老人。石を覗き込んで眉を跳ねる。すこし不快そうに灰色の目で賢者を見つめた。
「――貴重なものを無下に扱ってくれるな。ユリオス」
「ははは。頑張った私を褒めてくれても良いんだよ? むしろこれだけで済んで良かったと思いなよ。――まぁ、いいや。二人はあいさつを済ませのだっけ?」
話によると賢者が『空間転移』でこの場所に呼び寄せたらしい。すこし。少しだけ座標がズレて私の元に現れただけで。
それは難しい技術だと――現にふらふらだし――仕方ない。
なんとなく罪悪感を感じてさっと目を逸らした。
「……徘徊老人だと――」
よく考えればこんな街道を逸れた道。徘徊老人なんて居るはずはなかった。夜に。こんな異形が闊歩しているところだ。無事で居られるはずもなく。
いや。違うと思うけど。とアシッドが言っていたような言っていないような。ともかく危ないからと慌てて引っ張って来たのは私だ。
困っている人は助けなさい。と教わっている。
が。じっとりとした目を向けられ、『ごめんなさい』と言うしかない。悪い事をしたという覚えは無いけど。徘徊老人と勘違いしたのは申し訳ない気がしたのだ。
ピンと伸びた背。皺でくぼんだ両眼は生気を持ち若々しく見える。
『素直か』壁の向こうから聞きなれた声が聞こえたような気がしたが気のせいだろうか。
「それで。あの、この方は?」
しょんぼりしている私の横で口を開いたのはアシッドだった。ポンポンと宥めるように肩が叩かれる。
「ゼル君。この子がメリル君で、あっちがアシッド君。可愛いでしょ?」
何の自慢なのだろうか。にこっと笑う賢者は本気でそう思っているのか怪しい。そして異常ともいえる絶世の美人に何を言われても響かない。しかしながら大人になってもアシッドか可愛いのは認める。
その賢者を半眼で老人は見つめていた。
溜息一つ。
「……まさかユリオスがこの娘に付いているとは思わなかった」
「もちろん私も思わなかったよ。これには長い話があるけど聞くかい?」
「そんな戯言の為に私を呼び出したのか?」
「ふふふ。見ないふりでもする? ユーロ君にそうした様に」
ぴしりと空気が割れる音がする。重苦しい空気にも賢者が笑顔を崩すことはなかった。笑顔と沈黙の応酬が重苦しく肩に圧し掛かる。
息苦しい。
振り切るようにして――もはや耐えられなかった――私は考えないままに口を開いていた。
「ええと。ああ。ユーロつて母さまの名前でしたよね?」
覚えていたのか。なんて心底驚いた顔をしているのは馬鹿にされているのだろうか。つい数時間前までその話をしていたのだけれど。
薬を飲みますか? と考えながら苦い薬の調合法を思いつく限り考えてた。また肩を宥めるようにアシッドは叩いている。
いつものことだし。怒っても仕方ないし。なんて諦めた視線が言っている気がした。アシッドは賢者の性格については達観している気がする。というか諦めているのだろう。
「ああ。そのお父様のゼル君だよ。つまり――メリル君の爺様だねぇ」
それで現『塔主』――聖なる力を持つものを管理する塔の主だ。
静かに紹介する声と共に、老人は揺らめく灰色の双眸を私に向けた。どくりと心臓が波打つのは家族だと知ったからではなく、母を思い出したからだ。その浮かべる感情の色は違っても、同じだ。そう思った。
母と私と同じ色――。むしろ私は父の何に似たのだろうか。ふと、どうでもいい事を考える。
「お爺様?」
「この爺様を呼んだのは他でもないよ。君の行く末を見守ってもらうためだ」
「取り戻しに来たのではなく?」
ざっと踏みしめるようにして音を立てながらアシッドは私の前に立った。その目は真っ直ぐに老人――塔主を見つめている。塔主はそれに恐れることなく真っ直ぐに見返していた。威圧というか生きてきた年月が見えるような視線に少しだけたじろぐのはアシッドの方で。
「塔にとっては、メリルは必要だろ?」
「違うな。人間にとっては。だ……であるので我らが在る。勘違いするな。小僧」
「はははは。相変わらずだねぇ。ゼル君は。年をとって、それはもうどうかと思うんだ。私は。大体、君たちが言っていることは大まかに同じことだし」
言われて、塔主はじろりと不満げに賢者を睨んだ。それに賢者は肩を軽く竦め、意地悪い笑顔を浮かべて見せた。
あ。ご老人ても遊ぶんだ。と思った瞬間だった。『うわぁ』と小さく呟いたのはアシッドで私も同情を隠しきれない。その視線を感じ取ったりか乾いた口端がひくりと引きったような気がした。
「……いい加減私を名前で呼ぶことを止めよ。ユリオス」
「嫌だね。そんな事より。ゼル君は本当に見届けに来てもらっただけだよ。安心していい。私が保証する。それに戦闘力が皆無なの分かるだろう? 君たちが怖がる必要は無いよ」
確かにそうなのだけれど。聖なる力を持つものを保護する所の主がそれでいいだろうか。と眉を寄せる。私が塔に幾以外の選択をするのはこの人の――塔の利になりえることは無かった。
アシッドが私の変わりに口を開く。
「だけど。それではあんたの立場が無いだろ?」
信じられない。そう口を開く前に賢者は答える。
「良いんだよ。そうやって動いてきたのがゼル君なんだから。そのために、塔主になったしね」
「ユリオス」
ねめつけるような声に賢者は『分かっている』と言う風に手をひらひら振っている。安定の不安感だ。それは塔主も分かっているらしく軽く頭を抱えた。
「ま。結局。誰より何よりこの世界を変えたいのはゼル君自身だったんだよね」
「……ユリオス」
ねめつける様な低い声。
「分かったよ。ともかくこれだけはいいと私は思うから言うけれど、メリル君。ゼル君は君の家族としてここにいる」
「かぞく」
血のつながった……。
私にとってはアシッドやナイ。シロトやロナ――それに孤児院の皆が家族で。だからと言って何の感慨もない。
それに母さまとも仲良く無かったはずと賢者が言っていた。
今更感が凄い。
ちらりと見た塔主の顔は深く皺を刻んだまま変わることは無かった。何を考えているのか分からない灰色の双眸が揺れる。
「構わんよ。私はあなたに好かれようと思っていない。家族かどうかなんて思わなくても構わない。それはユリオスが言っているだけだしな。そうだな……私はただ『ここ』にいるだけだ。あなたがどんな選択をとろうが――その責任をとるためにここににいる。あなたが気にすることはない」
「……責任、ですか?」
「それが私の仕事なのでな」
細く骨が浮いた私に向けて軽く宙に浮かせる。まるでそれは『手をとれ』と言っているようでもあった。
乾ききった薄い唇。それが軽く弧を描いた。
「あなたにみせたいものがある」
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