第29話 過去4

 ユーロが嫁いだのは地図にも乗らないような小さな国の高位貴族であった。本来聖なる力を持つものは塔から出ることはない。ユーロが出られたというのは当代の塔主が進めたらしい。もしかしたら少しだけ親心もあったのかも知れないが今では聞く事も出来ない。別に知ったところで何も思うことは無いだろうけれど。


 溜息一つ。ユーロはのんびりとした雲の流れを見ながら小さな欠伸を噛み殺していた。


 ここに来てから酷く眠い。もはや一日の大半を寝て過ごしているくらいには。きっと何かの薬を毎日飲まされているのだろう。例えば――感情を抑えるための薬とか。それが本当は何か分からなかったが、ともかくこの四年間の記憶はあまりなかった。悲しいことに『夫』と呼ばれる人物の事もよくわからない。顔も声も朧気だった。


 ユーロは自身の身体を顧みる。常に眠っているためだろう。その身体はここに来た時よりもかなりやせ細っている。死なないことが不思議なくらいには――骨と皮だ。


 そんなユーロに夫が顧みるはずもなく。子供は当然のように出来るはずはない。それどころか別邸に移されて独りで暮らしている始末である。端的に言えば捨てられたということだろう。それはそれで気楽でユーロ自体には何の問題もなかった。


 ある意味。幸せというものなのかも知れない。


 最も子供を作るために結婚させられたのだから塔的には面白くも何とも無いだろうが。


 塔の考えに反するが別にこのまま終わってもいいのではとユーロは思っている。泣いても喚いても世界は続くのだ。


 魔法石が無くともきっと人間は適応していく。この世界で生きていかなければならないのだから。


「……眠いなぁ」


 ユーロは独り言ちた。


 小さな庭の隅にある東屋。静かで誰の気配もない。そう思っていたのだが。ざっと草木を踏みしめるような音にユーロは肩を軽く震わせた。


 獣だろうか――恐る恐る振り向くと。


「ユリオス」


 見覚えのある綺麗な顔。それに思わず苦虫を潰したような顔になってしまうのは不可抗力だ。更々と流れる蜜色の髪。赤い双眸がキラキラと輝いている。周りが緑に囲まれているためか、出来の好過ぎる造形と伴って絵画の中にいるようだ。


 ユリオスはにこりと笑った。別れた時のまま。何一つ変わらない容姿。それはこれからも変わらないのだろう。


「元気そうだね」


 冗談かと肩をユーロは竦めた。本気でそう見えるのなら目がおかしい。毎日薬に漬けられて顔色も悪いのだ。青白くて幽霊のようだ。ユーロ自体は鏡というものを見ることを早々に止めたが。


「そう見えますか?」


 小さな東屋。ユリオスはユーロの対面にゆるりと腰をかけた。長い脚を惜しげもなく組んでにこりと柔らかく笑って見せる。平均女性より些かちびっこいユーロ。なんとなく自慢の様に思えたのは羨ましい故だろう。些細なことだが。


「全然。うーん。食べたほうがいいと私は思う。せっかくの可愛さが台無しだね?」


 うざ。と感想が漏れそうになったのは言うまでもない。それを何とか押し込んでユーロは溜息交じりに口を開いていた。


「それで? 何の用です――まぁ。大体分かるけど」


「だよね。ユーロ君が嫁いで四年。そろそろ神殿が痺れを切れ始めてるから、私が様子を見に来たという訳さ」


「……薬を何とかしていただければ、まだましになると思うわ」


 四年。どこに薬を入れられているのか分からなかった。いくら食事を拒んでも。飲み物を拒んでも状況は変わらない。必ず眠くなるし、記憶が飛ぶ。ユーロは溜息一つ眠くて頭痛がする頭を軽く抑えた。


 薬がたとえ抜けたとしても、今更――もう遅い。ほとんど見ず知らずの夫との修復は不可能なのだろう。


 仕方ないか。とユーロは口元で転がした。


「で、私は神殿に戻るの?」


「ああ、そうなるらしいよ。新しい夫君を用意されるだろうね。神殿であればその症状も収まるはず。ああ。今の夫君には話は通してある。快く同意してくれたよ。後は手続きのみだね」


「そう――」


 それ以上の感想は対して思いつかなかった。少しだけ思うのは個々の景色が気に入っていたという事だけだ。


 変わる季節。整備されていない庭だけれどそれでもユーロにとっては美しいものだった。静かにこの場所で暮らしたかった。


 冷たい風が頬を撫でる。


「――興味ないみたいだね。何も」


 ユーロは苦笑を浮かべ空を見上げた。今日も空が綺麗だ。いつか見ていた空の様に。


 正直に言えばユーロはもはや自分の人生にも生きることにも興味を持つことが出来ない。生きているという感覚もなかった。きっと明日死ぬとしても多分興味など沸かないだろう。


 後悔があるとすれば。


 ユーロは顔をユリオスに向けた。


「あの。あの子は元気ですか?」


「元気というか。何というか――所詮石だしねぇ」


 ユリオスは苦笑を浮かべる。


 それはユリオスも同じなのだけれども分かっているのだろうかという疑問が浮かぶ。気持ちは分からないでもない。石なのだし。よく考えても石に『元気』も何も無いだろうから。しかしながらユリオスが何も言わないと言うことは『元気』という事なのだろう。そう判断してユーロは安堵するるように息を付いていた。


「まだ石に?」


 それしかないだろうと分かってはいても問うてしまうユーロ。それは自分でも滑稽だとおもったが、帰ってきた表情は意外なものだった。


 ユリオスは少しだけ困ったように笑う。それは見たこともない表情。ユーロは軽く眉を跳ねていた。


「うん。まぁ。さすがに私も『反転』する石は初めて見た。長生きはするものだねぇ」


「え。反転」


「――そう。反転。ちなみに成長するなんて聞いてないよ。私はこの年で親になった気分だよ」


「成長」


 意味が分からないまま、ユーロは言葉を重ねる。反転と言うことは異形のものでは無くなったという事だろうかと考える。でもそんな事が在りえるのか分からなかった。成長も然りで。


「会ってみるかい?」


 どこか楽し気に。かつ興味深気に言われてユーロは人形の様に頷くしか無かった。



 風が吹く。差し伸べられた腕は温かく。ラピスラズリを溶かしたような美しい藍色の双眸がそこにあった。


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