第6話 来訪者

「メリルさん――」


 声に私の意識は浮上していた。瞼を上げると視界に入るのは白い――使い古されたくすみはあるが――天井。その後でジワリと鼻孔に消毒剤の匂いが刺さる。


 ここは――と考えてああ。と息を付いて私は上半身を起こしていた。その動きと共にベッドのスプリングが小さく悲鳴を上げていた。


 そんなに重くはないのにと心の中で独り言ちる。


「大丈夫ですか?」


 声がして視線をずらすとそこには白衣を着込んだ老人が私を心配そうに覗き込んでいた。


 この老人はアーノルド・ハイスベルン――私は心の中でおじいちゃまと呼んでいる――医師。丘の上にある孤児院から下った町の隅にある診療所の医師だ。小さくてみすぼらしい診療所。そこに患者様が駆けこむことはあまり無く閑散としていた。おじいちゃまの人柄や腕が悪い――と言うわけではなく、単純に町の中心部に大きな医院があるからだった。大体ここに来るのは馴染みの患者か医院に断られたもの。訳アリの人が多い。


 そのため金払いは良くなく――と壁に打ち付けられている板に目を向けて溜息一つ吐き出していた。この間、酔っ払いが穴を開けていったのだけれどそれを治すお金すらない。そして当然に請求しない人の良さに私は頭を抱えてしまう。


「あの、私は?」


 したがピリピリするような気がするのは気のせいだろうか。私はおじいちゃまが持ってきた水を口に含んで嚥下する。


 その頭の上で呆れたような溜息一つ落ちてきた。


「メリルさん。また適当に薬草を調合して飲みましたね? 私はあれほど『してはいけない』と申し上げましたのに」


 ピタリと私の手が止まる。背中から感じる微かな怒気にジワリと汗が滲むのが分かった。故に顔すら上げられない。


「……え、と」


「ここにメリルさんが手伝いに来てから何度目でしょうね? そうやって倒れるのは。幸い何事も無かったからいいものの――もう『しない』と私と約束はしなかったでしたっけ?」


「……ええと」


 つい、つい。好奇心で。とは言えない。どうやって言い訳しようかと考えて頭を捻るが何も思いつかなかった。


 そう言えば、この前もそんな約束をした気がする。――あれは何か月前だっけ。いや。そもそもその前にも。


 ……まぁ。怒るよね。


 私はこの診療所に患者として来ている訳では無く、ここへ勉強と言う名目で手伝いに来ていた。かれこれ、もう五年程になるだろうか。院長先生が私を引っ張ってきた先はここで。院長先生と旧知の間柄だったおじいちゃまは大層困惑した様子だったが、院長先生は私を強引に押し付けていった。


 帰るところが無い――雇ってもらえないなら帰ってくるなと言われていた――私におじいちゃまが優しく笑いかけてくれたことを覚えている。


 ――そうだねえ。ここは人も来ないし。私の手伝いをしてもらえるなら構わないよ。


「聞いてますか?」


「ごめんなさい。つい。この間とは違う調合を試してみたくて……」


 消え入るように私は謝っていた。


 そうなのだ。調合が少し違えば効果が違う。だから少しずつ。少しずつ。自分の身体で試しているのだけど――たまにこうして倒れたりもする。そこは他人の身体を使っていないのだから良くないでしょうか。と言いたいがどうやらそれは通じないらしい。


 ついでに今作っているのは――睡眠薬。アシッドの眠りが浅くて困っているようだったので作っていたのだ。


 恐らく口の中がピリピリするのは気付け薬の味で、おじいちゃまが飲ませてくれたのだろうと推測する。


「……はぁ。メリルさんは気になるとすぐ動いてしまう悪い癖がありますよね? まったく。いいですか? 以前にも話しましたが、知っての通り薬というものは――」


 おじいちゃまの枯れた声をかき消すようにして心地よい音を立ててドアベルが響く。それは来客――もしくは患者さんが来た音だ。まぁこの時間はきっとおじいちゃまの話仲間なのだろうけれど。ちらりと時計を見れば十三時を少し回ったところだ。


 ああ。もう。とおじいちゃまは眉間に皺を寄せ、私は天の助けと言わんばかりにベッドを飛び出していた。


 ぱたぱたと廊下を抜けて、ぎしりと楯突けの悪い扉を開ける。


 さぁつと入ってくるのは初夏の日差しと涼やかな風。眩しくて目を細めた先には三人の少年少女が立っていた。


 一人は翡翠の双眸が印象的な線の細い、少女とも少年とも言えないような顔立ちのアシッド。ふわりと柔らい茶色い髪が風に揺れている。


 もう一人は赤毛でそばかす。優し気な垂れ目が印象的な少女――ナイ。その横にはにこにこと柔らかな目元と艶やかな黒い髪が青い空に良く映えるシロトという少年だ。


 アシッドは言わずもがな。友達で、ナイに関してはルームメイトである。ともかくとして、今頃は学校の筈なのだけれど。と私は小首を傾げていた。ちなみに私はここに来るため学校というものを許されていない。基本的な学問はおじいちゃまとナイに教わっていたりする。


「アシッド? それと。皆?」


「何不思議そうに見てるの? アシッドの定期健診で来たんだよ」


 そう言いながらまるで勝手知ったる家のようにナイを始めずかずかと診療所に入って待合室に三人ならんで込んを掛けている。


 ……その広げたお菓子は何なんだろう。というか、どこから……。孤児院では支給されないし、お金も貰う事もないのでどうやって持ってきたのか分からない。


「そうだっけ?」


 この前は何時だっただろうか。そんなに昔の事では無い気がするが――考えているとひょっこり優し気な笑顔を浮かべながらおじいちゃまはすたすたと歩いてくる。その手には仕事道具が詰まっている古びたカバンと皺くちゃな上着を持っていた。


 往診の予定はあっただろうか。何かを私が言う前におじいちゃまは皆に視線を滑らせた。この時点でどう見てもアシッドの定期健診ではないだろう。じめっとした私の視線に気づいているのか気づかないのか三人は『お邪魔してます』と愛想のいい笑顔を浮かべている。


「皆さん。ゆっくりしていってくださいね。私は何のお構いも出来ませんが。それと、メリルさん。私は往診に行ってきますので、誰か来たら対応お願いしますね?」


「私も――」


「いえいえ大したことではありません。大丈夫ですよ。それでは。行ってきますね。帰りは少し遅くなるかもしれません」


 年の割には凛とした姿勢と声。背中だけ見ていれば、年齢なんて感じさせないおじいちゃまは私がと止める間もなく診療所を後にしていた。


 残されたのは呆然ととしている私と、何事もなくお菓子を突いている三人の姿だけである。仕方ないなと溜息一つ。場を埋める様にポリポリと頭を掻いていた。


「あ……とりあえず。お茶入れようか?」


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