第69話 階層主・魔神イーフリート①


 ――SIDE:石瑠麗亜――



 異常を異常と気付ける人間なんて、ごく僅かしかいないんだと思う。その時々に冷静な判断を下せる人間は希少だわ。深層心理では何かがおかしいと気付いていながら、私はこの状況を何ら問題では無いと気にも留めていなかった。


 暴力的なまでの正常性バイアス。


 猛り狂う炎の熱を肌で感じながら、私は何故自分がこんな場所に居るのかを考えていた。

 

 それは、ある種の現実逃避だったのかも知れない。冷静さを保つ為、不可思議な事柄を殊更順序立てて整理する。


 ……答えなんて、何も出ないのに。



「あ、あ、あ……」



 目の前に顕現するは、異形の獣。


 なびたてがみは獅子の様。浅黒い肌に、人よりも倍する巨体を誇るその獣は、頭に大きな双角を持ち、四肢に炎を纏いながら辺りを自由に闊歩かっぽしていた。


 恐らく此処は、あの魔獣のテリトリー。


 辺りには古めかしいモニュメントが立ち並び、何かの遺跡となっていた。地面からは長い蔦が侵食しており、苔の生えた壁面を見るに、長い間放逐されていた事が分かるわ。


 人の手が入らない場所――


 つまり、助けが来るのも絶望的。



『グオオオオ――ッ!!』



 轟く咆哮に、私は肩を震わせる。


 今はまだ気付かれてはいない。けれど、それも時間の問題。背の高いモノリスを影にしながら、私は魔獣に気付かれない事を切に願った。


 ……転送区の受付で、誰かに話し掛けられた事だけは覚えているの。けれど、そこから先が思い出せない。何で私は一人でこんな場所に居るの!? 状況から言って、此処がABYSSの何処かである事は推察出来る。でも、記憶の糸は繋がらない。自分自身が何故こんな窮地に立たされているのか、到底理解は出来なかった。


 探索者になりたい――


 その思いに嘘はないわ。


 けれど――



「アレは……無理……っ!」



 何をどう抗ったとしても、助からないと感じてしまう。内包する力の差が余りにも隔絶としている! 立ち向かうなんて以ての外!!


 逃げて逃げて。

 隠れて隠れて。


 それでも、いつかは見付かって――


 私は、あの獣に食べられてしまうんだわ。



「……怖い」



 ABYSSに何て来なきゃ良かった……本当なら今頃、家でメイド達と一緒に紅茶でも飲みながら、姉様の帰りを待っていたと言うのに。


 ……此処で死んでしまったら……そんな事すら……もう出来ない……。


 後悔は止め処無く。

 振り返る度に、私の双眸は濡れて行く。


 もう誰でも良かった。

 誰でも良いから、助けて欲しい。


 私はまだ死にたくない。こんな所で、誰にも知られぬまま逝きたくない。


 終わりたく、ない……!



「……?」



 気が付くと、辺りは静かになっていたわ。


 疑問に思った私は、俯いていた顔を持ち上げ、泣き腫らした目蓋を開き――硬直する。



『ぐるるるるる……』


「あ!? あ、あぁぁぁぁ!?」



 魔獣と、目と目が合ってしまう。


 一体何時から回り込まれたの!? 完全に見付かってしまった私は、慄きながらも、その場から逃走しようと駆け出して――



『グオオォォォ――ッ!!』


「――」



 魔獣の咆哮により、その動きは静止する。


 圧倒的な威圧感。


 それが私に向けられていると感じただけで、気が狂いそうになってしまう。



「あ……」



 太腿から小水が流れる。恥ずかしいと言う気持ちは最早無かった。醜態を晒す事で見逃して貰えるなら、私は幾らでも晒すと思う。


 下着から靴先までを濡らしながら、私は小さな水溜まりの上でへたり込む。


 逃げてもどうせ、追い付かれる。


 なら、いっそ――



「!」



 獲物目掛けて、突進してくる魔獣。その姿を見た私は、思わず顔を引き攣らせる。


 ……無理。無理無理無理!!


 やっぱり無理ィっ!!


 命を失う覚悟なんて、やっぱり私には出来なかった。諦めたフリをしながら、本音では今も生きていたいと願っている。


 金縛りが解けたかの様に、急に足が動き出す。けれど、魔獣は直前まで迫っていて――



「キャァァァァァ――ッ!!」



 私は思わず目を瞑り、あらん限りの悲鳴を上げた。食い千切られる痛みはすぐには襲って来ず、秒数の経過が私の恐怖を煽っていく。


 10秒。20秒と経過して。


 ……何かがおかしいと、気が付いた。



「……あぇ……?」



 恐る恐る目を開けて見ると、そこには見覚えのある男性が背中を向けて立っていた。


 これは……幻?


 死の間際に見るのがアイツの姿だなんて、私ってどうかしているわ……。


 ……けれど、その幻は何時まで経っても消えなかった。目の前に存在する翔真の幻影。



「……何だよその顔。折角助けに来てやったんだから、もっと嬉しそうに出迎えろよな?」


「――」



 ――幻、なんかじゃない。


 眉間に皺を寄せながら、不愉快そうにする翔真。この……人への気配りが絶望的に下手な言葉は、間違いなく"石瑠翔真"本人だわ!


 上半身が裸な事とか。何でこんな場所に居るのかとか。色々な疑問が頭を過ぎるけれど、口をパクパクとさせるだけで、実際に言語化する事は出来なかった。



――そうだ! 魔獣は!?



 離れた距離で此方を窺う魔獣。何であんな場所に? ――と、考えた時。私は魔獣と私達の中間に突き刺さった一本の細剣を目にしたわ。


 もしかして、アレを翔真が投げたの……?

 答えは、本人の口から語られた。



「流石は階層主。魔神・イーフリートだね? 他の魔物と違って反応も段違いだ。僕レベルの投擲じゃあ掠りもしないや」


「ま、じん……?」



 聞き慣れない単語に、私は思わず鸚鵡おうむ返す。


 いえ、実際にそんなモノがABYSSには存在する事は知っていたけれど、目の前の魔獣がそんな大それたものだとは考えてもいなかった。


 階層主――と言う事は、少なくとも此処は10階層って事? 何で私がそんな場所に……!?


 頭が益々混乱するわ……!!



「何で翔真が此処に……!? 姉様は!?藍那姉様は一緒に来てないのっ!?」



 キョロキョロと辺りを見渡す私。けれど、それらしい人影は見当たらなくて――



「残念ながら、僕一人さ」


「一人……」



 私は、その言葉で再び絶望する。


 誰でも良いからと願ってはいたけれど、これじゃあ餌が増えただけじゃない。


 危機的状況には、変わり無いわ。



「は、早く逃げないと……!」



 焦る私とは対照的に、翔真の奴はこんな状況でも暢気な構えを崩さなかった。



「逃げるって何処に? 階層主戦は魔晶端末ポータル機能の【緊急脱出】も使えないよ?」


「――ッ!」



 翔真の言う通りだった。


 私の端末でも【緊急脱出】の項目は何故か使用不可になっていたわ。てっきり、故障か何かだと思っていたけれど、目の前に居るのが階層主なら、それも当然だったって事ね……。



魔晶端末ポータルの【緊急脱出】は、階層の何処かに存在する転移石の力を借りて初めて利用出来るんだ。原則として、階層主の居るエリアでは転移石は封じられている。つまり、足を踏み入れたが最後、奴を倒すまでは進む事も退く事も出来ないって訳さ」


「そ、それじゃあ私達は死んじゃうの……?」



 思わず、弱気な声が零れてしまう。



「……だからさ、それをさせない為に僕がいるんだ、つー……のッ!!」


「キャッ!?」



 翔真は徐に私の身体を抱え上げる。私が何かを抗議する前に、アイツは地面を蹴っていた。


 直後に擦過する、魔神の巨躯。


 突き刺さった細剣を巻き込みながらの突進を、翔真は危なげ無く回避する。まるで来ると分かっている攻撃を予定調和で躱している様だったわ。地を滑りながら舞い上がった細剣を宙空でキャッチする翔真。武器回収を念頭に入れて動いていた――? らしからぬその動き。その冷静さに、私は思わず息を呑んだ。


 ……何なの、この安心感……?


 翔真を相手に、私は何を――っ


 思った時には、



「ちょ――ッ!?」



 突然真横へと放られた私は、悲鳴を上げて地面の上を転がったわ。


 慌てて体勢を整えると、正面には魔神へと立ち向かう翔真の姿が見えていた。


 ……何て、自殺行為――!!


 止めるにしても、もう遅い。魔神から放たれる炎の流弾は近くの地面を燃やしていた。


 離れなければ、私も危ない……!



「――翔真ァァッ!!」



 気付いたら私は叫んでいた。


 蜃気楼の向こう側で、魔神を相手に果敢にも戦いを挑んで行く翔真。兄の無事を祈りながら、私はその姿を固唾を飲んで見守っていく。

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