第9話 姉のシゴきは蜜の味


 ――SIDE:石瑠藍那――



 午前三時。時間となったのを見計らい、私はトレーニングウェアで外へと出る。辺りは暗く、四月の春暖と言えども、やや肌寒かった。


 弟の翔真を待ちながら、私はその場で屈伸運動をし、凝り固まった筋肉を解していく。全身を満遍なく丁寧にストレッチを行うと、額からは薄らとした汗が浮かんできた。


 準備は万端。だが――



「……遅いな」



 腕時計で時間を確認してみると、既に10分は経過していた。外から見上げる翔真の部屋。窓には明かりの類は灯っていない。シンとして、寝静まっているのが見て取れた。


 ――やはり、来ないか。


 思わず、溜息が溢れそうになる。 


 我が弟、石瑠翔真の性根を矯正しようとした事は、何度もある。


 だが奴は、やる気がない。


 大口を叩く割には、のらりくらりと苦労から逃げ、今の今まで私との約束を果たした事など一度もなかった。


 女子生徒を庇ったと聞いた時は――少しは見直したものなのだがな。


 結局は、変わらずか。


 私はつい、昔の事を思い出してしまう。


 アレは、未だ幼い頃――6才の翔真を付近の公園へと連れて行った時の事だ。当時の石瑠家は離婚調停中。父も母も忙しかった為、幼い翔真の面倒は私が見ていた。


 内心では、複雑だったがな。


 子供の頃から賢しかった私は、よく親戚の者から家の近況を知らせて貰っていた。石瑠家が苦境に陥っている事も把握している。仏蘭西の愛人。隠されていた四つ下の妹の存在。母が父に愛想を尽かし、家を出て行くのも時間の問題である事も。


 遠くない将来。石瑠家本家により、父は当主の座から追われるだろう。朝廷の覚えを悪くした者を、いつまでも当主に据えて置くのは、本家からも良しとはしない。



『次期当主は、翔真君になるだろう。姉である藍那ちゃんは弟を支えてやりなさい』



 親戚からそう言われ、私はただ――頷く事しか出来なかった。学んで来た学問も、武芸も。全ては当主である翔真を支える為の物。


 その事実を簡単に飲み干せる程、私も人間が出来てはいなかったのだ。


 弟・翔真は――言っては何だが、出来が悪い。すぐに弱音を吐くし、酷く怖がりな性格をしていて、将来武家として朝廷からの任を立派に果たせるかは疑問であった。


 任務とは基本的にはABYSSの攻略である。


 諸外国への防備牽制。及び守護が武家の本分ではあるものの、基本的には政府勅命のABYSS攻略を推し進めるのが我等の役目であった。


 あの翔真に、魔物退治など出来るのか――?

 私ははなはだ疑問であった。



『ぴぎゃぁぁぁぁ!! ね、姉様ァァ!!』


『ッ、翔真!?』



 遠くから上がる弟の叫び声に、私は思考を中断する。気付けば翔真は私の前から消えていた。考え事をしている間に、何処かへと歩いて行ってしまったのだろう。

 

 何があったのか?


 声を頼りに、私は翔真の元へと急ぎ向かう。



『助けてェェェ――!! 犬がァァ!! 犬が僕の可愛いお尻をァァァァ!?』


『……』


『姉様ァァァ!? 早くぅ! 姉様ァァァ!!』



 ……トイ・プードル、か……?


 翔真の尻に噛み付いているのは、小型犬のトイ・プードルだ。恐らくは公園にいる者が、放して遊ばせていたのだろう。


 こんなにも可愛らしい犬に、此奴は……!


 私は、怒りと悲しみと悔しさが綯交ぜになった感情をその時に抱いた。



『きゅ~~~ん♡』


『……』


『あぁ!? 可愛い子ぶってる!? 何故ェ!?』



 私が犬に近付くと、トイ・プードルは可愛らしい声で一鳴きをすると、その場で腹を見せる様にして転がった。……何故というのは、私が聞きたい言葉である。



『翔真貴様ぁ……こんな小さな犬にも負けるとは……ッ!! それでも石瑠家の次期当主か!? 恥を知れ!!』


『ひぃ~~ん!? そんな事言われてもッ!?』


『黙れ!! 帰ったならば折檻だ!! 貴様の様な軟弱な奴を私は――ッ』



 ――支える為、生きている訳ではないッ!!


 最後の言葉だけは、こらえてしまう。

 

 どうしても私は、理性が勝つ。


 蔑ろにされた感情は、無くなる訳では決してない。私の中で渦巻いて、きっと、永遠に燻り続けるのだろう。


 絶望を抱いた――その時だ。



『……あのっ! 翔真君を、怒らないであげて下さい……!!』


『む? 君は――』



 其処に居たのは、鳳家の御令嬢。翔真の許嫁である鳳紅羽であった。彼女もこの公園に遊びに来ていたのか。


 途端に私は恥ずかしくなる。今起こった事は石瑠家の恥部だ。将来的に婚姻を結ぶ相手とは言え、外部の者に石瑠家当主の情けない姿を晒したくはない。より一層、私が翔真に対して怒りを感じた頃――


 幼い紅羽は”そうではない”と首を横に振る。



『彼――私が噛まれそうになった所を、身を挺して庇ってくれたんです! 』


『え……?』


『だから、その……怒らないで……』


『……』



 紅羽の言葉が確かなら、弟・翔真の心象は変わる。奴の軟弱さは、この私が良く知っていた。小型犬相手とは言え、立ち向かうのは相当な勇気だっただろう。


 ……許嫁を助ける為に、それを振り絞るか。



『……満更捨てた者でも、ないのかも知れないな……』


『え?』


『いや――だとしても、犬くらいは自力で追い払って貰わねば困る。翔真よ。折檻は中止だ。その代わり、帰ったら強くなる為の修練を私と共にして貰うぞ?』



 振り返ったその先、翔真の姿は消えていた。



『む……? 翔真は何処だ?』


『……さっき、何処かへと走って行ってしまいましたけど……?』



 ――前言撤回。

 ――やはり折檻は必要だ。



 懐かしい思い出を振り返るのは、奴が珍しい事をしたからだろう。


 助けた女子の中には、鳳紅羽が入っていた。


 軟弱さを拗らせて、最近では権威を笠に来て偉ぶる様になってしまったが、もしかしたらまた――奴も変わろうとしているのやも。


 そんな淡い期待を抱いていたのだがな。



「……行くか」



 30分が経過。恐らく翔真は来ないだろう。


 元々このトレーニングは私の日課だ。冷えてしまった身体に再び熱を入れる様に、その場から駆け出そうとした、その時である。



「お、遅くなって! すいましェェ――ンッ!」


「――」



 トレーニングウェアへと着替えた翔真が、息を切らして此方へとやって来る。


 私は思わず、呆然とした。



「あひぃッ!? あ、怒ってる……ッ!? ちちち、違うんです! 昨日夜遅くまで部屋の掃除をしててッ! その、飯食う暇も無くて! 起きた時には15分! バナナ食い終わった時には30分が経過しててぇッ! えーっと、えっとその……不可抗力なんです! ゆゆゆ、許してェ――ッ!!」


「……」


「あ、藍那……さん……?」


「あ、あぁ! そうだな――」



 まさか本当に来るとは――そう思っていた事を、弟には言えないだろう。



「……ふっ」


「どどどど、どうしました!? また僕なんかやっちゃいましたァ――ッ!?」


「うるさい! 外はまだ早朝だぞ? 朝は声量を落とせ。近所迷惑だ!!」


「はははい!」


「――では行くぞ、翔真。まずはランニングだ。遅れた分を取り戻す! 貴様には私が良いと言うまで走り続けて貰うからな? 胃の中の物を全て吐く準備をしておけ!!」


「……へ?」


「さァ! 始め!!」


「ひょ、ひょえ~~~ッ!!」



 尻を蹴り上げてやると、翔真は情けない声で走り出した。声量を落とせと言ったのに、この馬鹿は……!


 ――だが、悪くは無い。


 翔真の尻を蹴りながら、私は久方振りに心から笑うのだった。

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