29 あの子の名前は霞沢あい④

「私! 大人になったらりおくんと結婚したい!」


 人の前でとんでもないことを言い出す霞沢、俺は持っていたスプーンを落としてしまう。

 それは夏休みのある日、四人で朝ご飯を食べる時だった。


「あらら……、そんなにりおくんのことが好きなの? 早いね。あいちゃんは」

「はい! すっごく好きです!」

「あい……、朝から何を……?」

「さて、あいちゃんにプロポーズされたし。りおくんはどう?」


 もちろん、そこには霞沢のお母さんもいた。

 すぐ隣だから、たまたまこうやって一緒に朝ご飯を食べるけど……。それにしてもいきなりそんなことを言い出すなんて……、霞沢が何を考えているのか全然分からない。どうしてこの状況で「結婚」の話が出てしまうんだ……? 床に落としたスプーンを拾った俺は、そのままぼーっとしてしまう。頭が真っ白になった。


 どうしたらいい……?


「えっ?」

「あいちゃんはね。前には絶対行かないとか言ってたのに、最近は言わなくてもそっちに行っちゃうから……」

「は、はい……」

「それで最近いいことでもあったって聞いてみたら、あっち行くとりおくんがおままごとしてくれるからすっごく楽しいよ!って、私今日もりおくんと一緒に遊びたい! ねえ、お母さん私毎日が楽しいよ!って……。いいね〜。幼馴染は〜」

「そ、そうですか……」


 霞沢の真似はしなくてもいいと思いますけど……。


「うん! 毎日が楽しい! へへっ」

「…………」


 それってつまり……『人見知り』、『友達になる』、『こっちに来る』、『一緒に遊ぶ』そして『結婚をする』って流れ……? それは子供だった俺にすごく恐ろしい発想だった。確かに霞沢とままごとをした時、いつも結婚した夫婦って設定だったから分からないとは言わないけど……、人の前で堂々とそれを言い出すなんて……。恥ずかしい感情といろいろあって……何も言えず、席でじっとしていた。


「りおくん! 男としてはっきり答えてあげないと!」

「えっ? え……」


 もちろんそれは霞沢さんの冗談だったけど、子供だったから俺はその一言にすごく悩んでいた。適当に答えたらまた霞沢が泣いてしまうから、そこが一番難しい。口を開けてその話に答えるのはとても簡単なことだけど、周りの視線に緊張してしまう。どんな答えをすればいいのか、ずっとそれを悩んでいた。


「りおくん……」


 緊張しすぎて霞沢から目を逸らすと、すぐそばに来て俺と目を合わせる。

 逃げることもできないこの状況で、無意味な反抗は諦めることにした。


「……そ、そうだよ。俺もあいのこと好きだから。あ、もう……大人になったら結婚しよ———!」


 あ、言っちゃった。


「男だね〜。りおくんは」

「へへっ……、りおくん好き♡」

「やっぱり、私の息子! いい答えだった!」

「…………自分の子供に何を言わせるんだよ。お母さんは」

「いいじゃん。青春って感じ?」

「…………」


 ……


 食後、普段なら霞沢と一緒に遊ぶことになるけど、友達が増えたあの頃はみんなとサッカーをするのがもっと楽しかった。悪いことをした自覚はあったけど、それとこれと別だから、俺はすぐ運動場に向かって帰るのは午後の五時くらいだった。


 どんどん友達を増やして学校生活を楽しむ。

 男の友達と女の友達は違うから———。


 いつも霞沢のことを優先したかったけど、あの時には悩みがあった。

 それは学校でもさりげなくくっつく霞沢のせいで、周りの人たちに「お前ら、付き合ってんのかよ〜。ええ!」と、すぐからかわれてしまうことだった。霞沢は何も言わなかったけど、俺はちょっとだけ……その状況が恥ずかしかったかもしれない。


 だから、わざわざ距離を置いていたと思う。


「疲れたぁ……」

「りおくん……。帰るのが遅い……! 今日はすぐ帰るって言ったじゃん!」

「今日は……サッカー終わった後、高橋とアイス食べたから」

「私もりおくんと一緒にアイス食べたいのに!」

「冷蔵庫にあるじゃん……」

「…………知らない!」


 そう言ってから、持っていたぬいぐるみを俺の方に投げる。


「あい……」

「話かけないで!」

「ごめん……」


 でも、距離を置いた理由はそれだけじゃなかった。

 どんどん成長しているからか、俺はある日からわけ分からない感情を感じるようになった。それは言葉で言いづらい感情で、俺自身にもよく分からないこと。それでも俺と霞沢はそのままで、いつもと同じ変わらない日々を過ごしていた。


「いつも、友達友達……。サッカーとか、自転車とか!」

「えっ……ごめん」

「いつも、謝るだけじゃん! ごめん! ごめん! ごめん! 私はいつもここで待ってるのに……。私のこと大切にしてくれないりおくんは大嫌いだよ!」


 何が問題だったのかは俺もちゃんと知っていた。

 なのに、わけ分からない壁が俺たちの間にある。


「…………た、大切にするから。ごめん……あい」


 すると、先まで怒っていた霞沢が俺に抱きつく。


「ごめんじゃなくて、私と過ごす時間を……もっと増やしてよ。私にはりおくんしかいないから」

「うん。分かった。でも、あいはどうして友達を作らないの?」

「私はりおくんだけでいいよ。りおくんは私の幼馴染だから、ずっと私のそばにいてくれた人だから友達なんかいらない」

「そう……?」

「うん……」


 そして二人の間に静寂が流れる。


「…………」


 今更だけど、霞沢の黒くて長い髪の毛は初めて出会った時よりもっと伸びていた。

 それに抱きしめられる時も、なんか柔らかい感触が伝わってくる。

 いつもこんな風にくっついていたから別に気にしていなかったけど、やはり俺たちは少しずつ成長している。恥ずかしいけど、それを感じた。


「ねえ、なでなでして……」

「今?」

「うん……。今日はりおくんが悪いから、私の言う通りにして。そうやってくれるよね?」

「…………はい。分かりました」

「ひひっ」

「子供じゃあるまいし……、あいはこんなことがいいの?」

「うん……すっごく気持ちいいよ。りおくん、好き……」

「…………」


 そして、その言葉を言われる日もどんどん増えていた。

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