五、幼い頃

26 あの子の名前は霞沢あい

 あれから数日が経ったのに、キスをした時の感触がまだ唇に残っている。

 俺は霞沢の幼馴染だから、仲が良かったことを否定しない。それでも彼女のその行為を理解するのは無理だった。そこにいた時も「キス」という行為に興味を持ってなかったし、それに霞沢のことを恋愛対象として見ていなかったから、どうしてそうなるのか分からなかった。俺たちはただの幼馴染だ。生まれた時からずっとそばにいてくれた人、いつも笑顔で俺に声をかけてくれた人……。俺たちはそんな関係だ。


 そう、それだけの関係———。


「…………」


 中学校まで一緒に卒業したけど、俺は引っ越す前に卒アルを捨てた。

 だから、今はあの頃の思い出をほとんど思い出せない。持っているのは、財布の奥に入れておいた幼い頃の写真。シワのついたこの写真も引っ越す前に捨てようとしたけど、それだけはどうしても捨てられなかった。


「へえ……。あい、ちっちゃいな……」


 そこに写ってるのは小学生だった頃の二人、多分霞沢さんが撮ってくれたと思う。

 懐かしいな……。


「あの時のことか……」


 ……


 霞沢と初めて出会ったのは多分……霞沢さんがうちにきた時だと思う……。

 あの時の俺は霞沢の存在を知っていたけど、まだ話したことがないからどんな人なのかよく分からなかった。お母さんの親友だった霞沢さんに小さい娘がいて、霞沢と何回目を合わせたのが全部だった。


「ほら、あいちゃん。りおくんだよ? 挨拶しないと……」

「ううん……」


 ちっちゃい女の子。

 右手はクマのぬいぐるみを持っていて、左手は霞沢さんの袖を掴んでいた。霞沢は人見知りをする女の子で挨拶をする前にすぐ隠れてしまったけど、あの頃の俺は友達がいなかったから誰かと出会うのがすごく嬉しかった。


「りお! 北川りお!」

「…………」


 先に挨拶をして手を差し伸べたけど、綺麗に無視される。

 でも、俺は落ち込んだりしなかった。

 まだ小学生だったから、恥ずかしいとかそういうのをよく知らなかったと思う。あの時はただ誰かがうちに来てくれるのがすごく好きだっただけ。一人じゃ寂しくなるから……。


「あ、あいちゃん……!」

「ううん……!」

「お母さん今から仕事行かないと……、ちょっと……あいちゃん」


 玄関でぼぼ十五分。

 霞沢はお母さんの袖を掴んだまま離してあげなかった。


「行かないで……、一緒にいたい」

「でも、お母さんは仕事をしないと……。そしてあいちゃんが欲しいって言ってたひよこのぬいぐるみ、買えなくなってもいいの?」


 ひよこのぬいぐるみ……?


「それは嫌……。でも、お母さんと一緒にいたい……一人にさせないで……」

「一人じゃないよ? りおくんも一緒にいるからね?」

「…………」

「あいちゃんは我慢上手だから、りおくんと仲良くできるよね?」

「…………」


 こくりこくりと頷く霞沢は、涙を流しながら霞沢さんに「バイバイ」と言った。

 ひよこのぬいぐるみに負けてしまった霞沢……。

 そして二人っきりになったけど、俺たちの間にはなんの会話もなかった。広い居間にはずっと静寂が流れていて、霞沢は何も言わずにクマのぬいぐるみを抱きしめるだけだった。


「ねえ……。か、霞沢……」

「…………」


 しかと……。


 このままじゃ一人で遊ぶ時と一緒だから、どうしても霞沢と話がしたかった。

 一人より二人の方が絶対楽しいはずだから……。


「ねえ! バナナ食べない?」

「いらない……」


 おっ! なんか喋った……!

 冷たい答えだったけど、それがすごく嬉しくて俺は霞沢と仲良くなりたかった。


「霞沢は何が好き? 食べ物とか……、アニメとか……」

「私はぬいぐるみが好き……」

「あっ! そうだ。さっき……ひよこのぬいぐるみが欲しいって……」

「うん……。ひよこちゃん欲しい……、今週お母さんが買ってくれるって私と約束したの……」

「俺……持ってるよ? ひよこのぬいぐるみ」

「えっ! 持ってるの……?」

「うん! 見に行かない? 俺の部屋にあるから」

「うん! み、見せて!!」


 そう言ってからいきなり立ち上がる霞沢に、俺はビクッとした。

 先まで落ち込んでいた霞沢は「ひよこのぬいぐるみ」を聞いてから、すぐテンションが上がってしまう。そして彼女を部屋に連れてきた俺は、ベッドに置いている超巨大のひよこぬいぐるみを見せてあげた。


「わあぁ……」


 そのぬいぐるみはベッドの三分の一を占めるほど大きくて、酔っ払ったお父さんがどっかで買ってきた物だった。せっかく買ってくれたから捨てるのもあれだし、ベッドの上に放置したまま数ヶ月が経ってしまった。


「さ、触ってみてもいい……?」

「もちろん!」

「わぁ! 大きくて、ふわふわで、すっごく可愛い……」

「そうだよね?」

「…………私もこの大きいひよこちゃん欲しいのに、これ……高い?」

「確かに、高かった気がする」


 その一言にすぐ落ち込む霞沢。


「…………」

「じゃあ、それあげる」

「えっ! いいの……?」

「うん。霞沢、ひよこのぬいぐるみ好きだよね?」

「うん! 好き……」

「じゃあ、霞沢にあげる。その代わりに、俺と友達になって欲しい! それだけ!」

「本当に……いいの?」

「うん!」

「うん……」

「おう!!」


 俺が霞沢と友達になったのはひよこ様のおかげだった。


「り……、り……、りおくん! ひよこのぬいぐるみ……ありがとう」

「うん! じゃあ、一緒に遊びたい! 霞沢の好きなことなんでもいいよ! 初めての友達だから!」

「私、おままごと! したい……けど……」

「いいよ!」

「うん!!」

「へえ、霞沢はそんな風に笑うんだ」

「えっ? し、知らない……」


 目の前で見た霞沢の笑顔はとても可愛かった。

 俺はその笑顔を見るために、けっこう頑張っていたと思う。

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