里見、お別れ

神逢坂鞠帆(かみをさか・まりほ)

第1話

「こんにちは」

 庭仕事の最中、澄んだ少年の声がした。振り返ると、想像と違わない美しい少年が立っていた。微笑み、目を輝かせている。はて、家の近くにこんな子供が居ただろうか。いや、居ない。私は、唇から笑い声を漏らしていた。

「君、里見さとみだろう」

 少年は、目を丸くした。すぐに、破顔する。

「はい。父さん」

「少し目を離した隙に、随分、大きくなったものだなぁ」

 息子は、まだ小学生にもならない。母親に似て、陰りのある性質をしている。しかし、湿り気はなく、からりと明るいところもある。

「そうでしょう。父さんに大きくなった姿を見せたくて」

「里見」

 予感があった。この子は、これから親の手の届かない所へ行ってしまう。

「どれ、母さんを呼んでこよう」

「やめてください」

 ぴしゃりと遮られる。ああ、予感はそうではなくて、これから起こる現実なのだ。

「母さんは、泣くでしょう。でも、仕方のやいことです」

「うん、そうだよな」

 どうしようもないことはある。せっかく最期の別れをしにきてくれたのに、責めるのはあまりに酷い。親のすべき行動ではない。代わりに、抱きしめてやる。

「父さん」

「うん」

「あのね」

 耳元で、囁く。それは、自分が亡くなってしまったあとのこと。そして、家族のこと。殊勝な息子は、なんと父の友人の心配までしてくれていた。了承した旨を伝える。息子の身体から質量が消えたのを感じる。ゆらゆらしている。顔を離して、表情を窺う。

「父さん、怒らないんだね」

 ふわっとした疑問。捉えどころがまるでない。

「うん」言葉を飲み込む。「里見に、怒ったことないよ」

 息子は、知っていた。だから、両親を困らせるようなことを一切してこなかったのだ。なのに、息子は困ったように首を傾げてみせる。

「そうだったかなぁ」

 覚えてない。覚えてないと、息子は哀しそうに呟いた。どうしてだろう。これだけしか、一緒に居られなかったのに、全部は、覚えていないのだと。

「里見。大丈夫、父さんと母さんが、里見のこと覚えているから」

 覚えていないから、哀しい。覚えているから、哀しくなる。息子が、空を見上げる。直に夜が明ける。私は、息子の手に触れた。

「じゃあね」

「さようなら」

 息子は、駆けていった。静かな庭に、すずめの声がする。私は、耳を塞いだ。それでも、遠くで妻の悲痛な声が漏れ聞こえてきた。

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里見、お別れ 神逢坂鞠帆(かみをさか・まりほ) @kamiwosakamariho

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