第35話 勤務の浄化 五

 こうなったらもう、前進あるのみ。いや、あくまで背は壁につけておく。老婆だって田中に背後をとられたのかもしれないし。


 カニ歩きを再開し、地下室で三つ目のドアに至った。まずはドアごしに耳をすませる。かすかにパトカーかなにかのサイレンが聞こえてきた。不吉極まりない。


 怪獣が暴れまわっているよりましだ。渕山は心の中で自分にそう言い聞かせ、ドアを開けた。もはや一回は小さく開けて様子を伺う余裕もなくなっていた。


 室内は、裕福な民家の居間といったところだ。ゆったりした広さに、巨大な液晶テレビや頑丈そうな安楽椅子。分厚く重々しいテーブルのうえには、皿に盛りつけられた果物まである。


 地下階にいるはずなのに、壁一面を使ったガラス戸からは並木道が伸びていた。サイレンは外からもたらされているが、まだパトカーも救急車もやってこない。


 日光浴でもするつもりなのだろうか、二脚目の安楽椅子はガラス戸に面して据えてあった。戸口に近い場所にある安楽椅子は、液晶テレビを見るようになっている。つまり、二脚の椅子はたがいにそっぽをむいている。


 テレビのリモコンは見あたらないし、まさか果物を食べる気にはなれない。となると、ガラス戸に近い方の安楽椅子しかない。死体も化け物もやめてくれと口にださずに祈りながら、うしろ手にドアをしめてすり足で手が届くところまできた。


 椅子が回転するかどうかをまず調べるのか、いきなり正面に回るか。どのみちそれほどの差はない。手を、というより身体のどの部分であれ椅子につけるのは避けたかった。だから、後者にした。


「ひぃいーっ!」


 両腕を脇にぴったりつけるようにして縮めながら、渕山はのけぞった。


 想定していたとはいえ、やはり死体だった。新聞にあった、田中の妻。中年の終わり頃ぐらいな外見だ。身なりも居間にふさわしく高そうな衣服を着ている。紺色のネクタイが首に巻きつき、ぽかんと開いた口からだらりと舌がつきでている。ひきつった眉根の下は白眼になりかかっていた。両手は最後まで抵抗したものか、ネクタイにかかっていた。膝のうえには預金通帳がある。


 警官でも鑑識でもない渕山だが、通帳を放ってはおけないだろう。さっきの新聞で驚かされた記憶が手をとめようとしたものの、引きかえしてもなんら益にならない。とりあえず通帳を拾いあげ、まずは表紙や裏表紙をためつすがめつした。名義も銀行名も口座番号もない。文字どおり『預金通帳』と表紙にあるだけだ。頁を開くと、最初の行で全額が引きだされていた。日付は田中の妻が殺害される数日前。


『あかるーく! ひろびーろ! 天まで届け、巣出の里!』

「わあぁっ!」


 なんの前触れもなくついたテレビが、巣出村とおぼしき山を撮影した動画を流した。ポーズをとって笑っているのは田中だ。プロの撮影でないのは、渕山も自作動画を宣伝用に制作しているのですぐわかった。


『こんな感じで、一つお願いしますよ』


 田中がにこやかに頼むと、短く返事をしたうえで数人の山伏達がカメラの前にでた。反対に、田中は画面から消えた。


『あかるーく! ひろびーろ! 天まで届け、巣出の里!』


 山伏達が、ぎこちなく田中の振りつけを真似した。


 村興しかなにかの、他愛もない練習風景……のはずが、むこうがわの画面でこちらに脚をむけてハエがへばりついた。ハエはたちまち数を増し、画面を覆い尽くした。そこでテレビのスイッチが一方的に消された。


「うわっ!」


 首筋になにかがへばりつき、渕山は通帳を落とした。反射的に手で払おうとして、かすかな羽音に気づいた。


 一匹のハエが、渕山の周りを飛んでいる。目障りとはこのことだ。


 殺虫剤でもあればさっさと解決するものを……と考えてから、ハッと気づいた。バーチャル空間で、人間以外の生きている動物が現れたのは初めてだ。『神捨て』は、試作品なのを差しひくにしてもバグだらけでお世辞にも円滑とはいえない。渕山のような門外漢にもその程度はわかる。しかし、植物ではなく動物を……それも、ハエのように素早く飛び続ける昆虫を……盛りこむようになったのは一定の前進ではないのか。すなわち、メイまたは博尾の目的……模造品の呪宝如来を本物にすること……がより発展している可能性が高い。


 老婆と博尾達のどちらが勝とうが、それ自体は渕山には無頓着だった。ただ、自分の預かり知らぬ次元で勝手に物事が進展していくのは防ぎたい。


 ところで、二匹目のハエが現れた。最初は驚愕したものの、二番煎じではびくともしない。サイレンも虚仮おどしのようだし、老婆の捜索に……。


「ひゃあぁぁぁーっ!」


 自らがくぐったばかりの戸口に振り返った渕山は、ガラス戸に背中がぶつかるまで飛びのいた。紺色のネクタイを手にした田中が、まさに今ドアを開けたところだ。


 田中は、ただ田中ではなかった。全身にびっしりとまとわりつく無数のハエ。低くうなる羽音を伴いおぞましくうごめき回る様子は、腐った死体がハエにたかられながら歩く光景さながらだった。いや、いっそ死体ならごくわずかながらも合理的な説明がつく。田中はまごうことなき生体だ。


「俺が悪いんじゃない」


 開口一番、田中は語った。自分にたかるハエには興味がなさそうだった。いや、もはやハエの一匹一匹が田中自身だった。面とむかっているから拘束されてもおかしくないが、まだどうにか距離がある。

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