第30話 反抗の脱却 七

 戸口に隙間が生まれたとたん、より強く様々な調味料の香りが薄灰色の煙とともにやってきた。同時に、壁から天井からびっしりと写真が貼られているのもわかった。


 写真はどれもこれも、パソコンに取りこんだ画像を紙に印刷したものだった。どの一枚一枚にも曽木が写っている。


 渕山は、ドアを完全に開けた。時代劇にでてくる農家のような屋内で、彼の胸くらいはある土鍋が囲炉裏の火にあぶられていた。煙や香りはそこから流れている。


 写真の曽木は、ふんどし一丁で滝に打たれたり桶の水を頭からかぶったりしている。


 なるほど、『修行』に励んで……あるいは励まさせられて……いたのだろう。


「お邪魔します」


 我ながら間抜けな挨拶になった。土間で靴を脱いであがり、囲炉裏の前で片膝をついた。


「ぎゃあーっ!」


 土鍋の蓋を開けた渕山は、ついに自制心が効かなくなった。


 目を剥いたまま両手を背中のうしろにしてどうにか自分の体重を支えている。力の萎えた足はいい加減に投げだされたままだった。


 土鍋の中身は、一匹の猫だった。それも、毛をむしってさえいない。三毛猫だ。カッと見開かれた両目といい、口から垂れるようにでている舌といい、二度と忘れられない無残な姿だ。なまじ調味料の香りが美味しそうなだけになおさら胸がむかつく。


「ひっ……ひいいっ!」


 もはや恥も外聞もない。腰が抜けたままあとずさり、土鍋から視線だけでも外そうと針路を曲げた。


 その直後、ついさっきまで自分がいた場所にゴルフクラブが振り降ろされた。バシンと鼓膜がどうにかなりそうな音が破裂し、首だけうしろをむくと曽木がいた。


「拘束」


 曽木の一言で、渕山は自由を失った。目があっただけで条件が満たされるということだ。


「この部屋……俺の受けた仕打ちをまざまざと思いださせるよな」


 渕山の背後にたったまま、曽木は憎々しげに吐き捨てた。


「お、お前が猫を……!?」

「ふざけるな! あれは俺の飼い猫だ! あいつらがやったんだ!」

「あいつらって、ここの山伏か?」

「それだけじゃない。俺の親も、クソ講師も全員だ!」

「わ、わかるように説明してくれよ」

「俺はむりやりここで修行させられてたんだが、飼ってた猫が病気にかかってて治療を親に頼んでたんだ!」


 殺人犯でもペットを大事にするくらいな良心はあったらしい。


「そうしたら、親がクソ講師に相談して、クソ講師が猫を料理するように山伏達をけしかけたんだ! 俺はむりやりそれを食わされたんだぞ!」


 曽木の主張にも一理ある。そう考えて悪いなら、少なくとも理解の余地はある。犯罪は犯罪だというなら山伏達のやったことだって裁きが必要だったろう。


 だからといって自分がやられる筋あいもない。煮込まれていた猫は残酷なこと甚だしいし、強烈な衝撃でもあった。しかし、曽木の抱えるわかりやすい動機が渕山に冷静さを回復させてしまった。


「じゃあ、両親だけを殺したんじゃないのか?」

「当たり前じゃないか! クソ講師もだ! 山伏達までは無理だったけどな!」


 やはり。殺害した人々が微妙にずれている。あとで博尾に質さねばならない……この場を切りぬけられれば、だが。


「猫は?」

「あ?」

「『神捨て』でお前の復活は保証されているとして、猫はどうなんだ?」

「そりゃあ……そこまでは……」

「つまりお前の怒りは、結局我が身可愛さだけじゃないか」

「違う!」


 はっきりと、拘束リングが緩んだ。


「違うものか。だいたい、猫を虐待したのは山伏達なんだから本末転倒だ」

「お、俺をこんな山小屋に監禁するようにしたのは……」

「そこがおかしいんだよ。猫の件と自分の立場がごっちゃじゃないか」

「違う! お前になにが……」


 今だ! 渕山は精一杯首を曲げて、曽木を見た。


「うわっ!」


 予期せぬ反撃に……ただ顔を見ただけなのだが……曽木はひるみ、拘束リングはヒビが入って割れた。


 勢いをつけて起きあがり、渕山は曽木を突きとばして山小屋をでた。もっとも、パソコンのあった建物は消えさっている。滝の脇にある細道を登るしかない。


「待てーっ!」


 怒りに我を忘れた曽木が、少し遅れて山小屋からでてきた。


「くそっ、どこだ! どこに逃げた!」


 山小屋から滝まで十数メートルしかないのに、曽木は首を左右に振って怒鳴っている。打ちっぱなしでのいきさつといい、極度の近眼のようだ。眼鏡はかけてないし、コンタクトもはめてないのだろう。具体的な理由は知らないが、好都合だ。


 おあつらえむきに、細道には足場のあやふやなところがあった。渕山の頭くらいはある岩も。


「おーい、ここまできてみろ!」


 岩をさりげなくあやふやな足場の近くにおいてから、渕山は呼んだ。


「そこにいたのか! 逃げるなよ!」


 殺意を隠そうともせず、曽木は走ってくる。細道を一気に駆けあがり、渕山がしこんだ岩を踏みつけてバランスを崩した。滑った拍子に足場が崩れ、滝壺に転落する。派手な水しぶきが勢いよく昇った。


「ぶわぁっ! がぼっ!」


 いたずらに両手でもがくところからして、曽木は泳げないようだ。そのまま引きこまれるように沈んだ。二度と浮かんでこなかった。


『おめ……で……います! 勝者……山様!』


 いつものアナウンスが……声こそメイのそれだが……雑音だらけでろくに聞けない。かと思ったら、滝壺の水が逆流して渕山ごと上流へ逆巻いていった。目にしみる痛みから、真水ではなく海水になっていると彼は悟った。そこで意識はとぎれた。

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