五 俺はゴルフボールじゃない。同情はするが。

第24話 反抗の脱却 一

 どうにか呪宝如来の部屋まで帰ってはきた。とてもじゃないが、清々しい気分になれるはずがない。おまけに室内には誰もいなかった。


 習慣……認めたくはないがせずにはいられない習慣が、この洋館にきてから一つできた。没入が終わるたびに、呪宝如来の変化をはっきりさせねば気がすまない。


 背後に炎、右手に独鈷ときて今度は左手に琵琶を持っていた。よく、平家物語で法師が鳴らす弦楽器だ。バチは弦と琵琶本体に挟むようにして入れてある。


 ここまで目のあたりにすると、渕山でなくとも理解できる。『神捨て』の挑戦者にかかわる品を、呪宝如来は一つ一つ携えていくのだ。博尾だかメイコだかが据えつけているのだろう。試作品とはいえ革命的なバーチャル空間を創ろうとしているのに、千数百年も前の仏像……それも模造品……にどうしてこだわるのか。さっぱり理解できない。


 それはそれとして、自分一人しかいないならちょっとした機会だ。服を脱がないまでも、手探りで脇腹やふくらはぎの様子を調べたい。


 シャツの裾から手を潜らせ、脇腹を撫でた。滑らかな肌には一つも違和感がない。安心しかけた直後、ごまかしようのない鋭い痛みが渕山の顔をこわばらせた。パイプでの刺突そのものだ。視線をそらそうとして、袖のシミが目に入った。


 シャツを元どおりにして、ズボンごしにふくらはぎを軽く揉んでみた。脇腹と同様、いつもと変わらない感触なのに無視できない痛みが湧いてきた。なまじ傷口がないだけに始末が悪い。


 ひょっとして……自分もまた呪宝如来のように……。


 そこで、ドアがノックされた。


「はい」

「失礼します」


 メイコが……役目上、メイではなかろう……ドアを開けた。彼女だけで、博尾はいない。


 ドアをうしろ手に閉めて、メイコは渕山まで五歩というところまで近づいた。


「三回目の『神捨て』、お疲れ様でした」

「いえ、それほどでも」


 深々と背を曲げてねぎらうメイコに、渕山は形だけ謙遜した。


「お疲れもたまってらっしゃいますし、よろしければ軽食をご用意できます。いかが致しましょう?」


 姿勢をもどし、メイコは渕山がこの館にきてから初めて手放しで喜べそうな提案をした。


「いや、それは……」

「ご空腹でしたら、どうかご遠慮なく。代金も発生致しません」


 メイコは、さりげなく渕山の懸念を補った。


「お気遣い痛みいります。博尾さんは……その、まだご用がすみませんか?」

「はい、申し訳ございません」


 ついでにメイのことも少しは聞きたいが、この流れでは不躾だろう。


「それでしたら、ありがたく頂戴します」

「かしこまりました。和食か洋食か、どちらになさいますか? 和食はお結びで、洋食はサンドイッチになります」

「では、洋食で」

「アレルギーや、とくにお好みの具はございますか?」

「いえ、全く大丈夫です」

「かしこまりました。しばらくお待ち下さいませ」


 メイコが退室し、またしても部屋はがらんどうに限りなく迫った。渕山自身もいれば呪宝如来もあるのだから、けっして本当に空っぽになるのではない。頭の中では……厳密には、理性においてはちゃんと理解している。理性でない部分からは、自分自身が次第に空っぽになっていくような気配が忍びよってくる。


「筋肉は裏切らない。筋肉は裏切らない」


 館にきてから、まだ金を拝んでない。ならば、渕山がすがりつけるのは自分の筋肉しかない。


 まずは博尾から『神捨て』についてもっと詳しい要領が知りたい。率直にいって、行き当たりばったりな内容が多すぎる。


 具体的な質問をあれこれ練っていると、ランチワゴンを押してメイコがもどってきた。ランチワゴンには銀色に鈍く輝く蓋がかぶさった平皿と、くすんだ緑色のピッチャーにコップが乗せてある。


「失礼します。軽食をお持ちしました」


 メイコはランチワゴンをテーブルの脇につけた。蓋を開けると、期待どおりに色とりどりの具を挟んだサンドイッチが現れた。メイコは木製のトレーに乗せたおしぼりを渕山の前にだし、コースターをテーブルに敷いた。ついで、コップにピッチャーの茶を注いでコースターに置いた。


「ありがとうございます」


 渕山が感謝する間に、メイコはサンドイッチの皿をコップの隣に給仕した。


「お茶はその都度私がおいれします。それと、お好きなタイミングでこれまでの挑戦者の皆様とお話もできます。お気軽にお申しつけ下さい」

「ありがとうございます。しばらくは食事に専念したいです」

「かしこまりました。私はここで待機します」

「頂きます」


 思えば、身心をすり減らす異常な連中とのストレスまみれなやりとりばかりだった。渕山にとって人生最大の楽しみは食事と睡眠であり、疲れを癒す絶好の機会だった。


 サンドイッチはレタスやハムやチーズが見た目も香りも食欲を駆りたてた。無作法にならない最大限の速さで、次から次へと手が伸びた。


 メイコはひたすら茶汲みに徹した。メイドであるから当たり前な役割ではある。しかし、渕山は十分に世俗的な男子でもある。美人のメイドが給仕してくれるという、ある意味で昭和風な贅沢を初めて味わった。メイドカフェの類はどうせまずい食事しかでないだろうと思って無視していたし、そもそも仕事が忙しくて久しく異性と接してない。

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