第15話 粘着の解脱 五

 皮肉にも傷の痛みが、渕山に重大な気づきをもたらした。


 本来、彼はトレーナーとしてここにきている。ヤラセの都市伝説のためでは全くない。博尾がもっともらしいことを主張するからついてきているふりをしているだけで、本心は多額の報酬だ。なのに、『神捨て』を破ってはいけないおごそかな儀式のようにこころえはじめているではないか。


 こうならべると長考に沈んだように思えるが、じっさいにはあっという間だ。渕山は、過去最高に頭をフル回転させねばならなかった。


「逃げるなーっ!」


 佐藤がドアのノブに手をかけた。傷口を抑える余裕もなく、渕山は走らねばならなかった。


 どのみち長く走るのは不可能だ。ならば、ホテルの中で決着をつけねばならない。しかも、相手が自分をすぐに見つける前提で。


 トイレは狭すぎて論外。だいいちトイレットペーパーでは血をとめられないだろう。第三者に助けを求めることもできない。儀式に無関係な人間は最初から弾かれているのは、鈴木の件で把握ずみだ。


 では、事務室しかない。地下室でもいいが、事務室なら救急箱くらいあるだろう。問題は、そもそも入室できるかどうかだ。こればかりは賭けるしかない。


 とにかく一階に降りればフロントがある。階段へはすぐにいきついた。負傷してなければ飛び降りたいくらいだ。


 少し遅れて、自分以外の足音がそこかしこに響いてきた。ぬきさしならない。


 階段の壁に貼られた数字から、さっきまでいたのが二階だと知られた。ささやかな幸運だ。幸運といえば、廊下もそうだが階段は特に暗い。これなら佐藤が彼の血痕をたどるのにも苦労するだろう。


 一階に降りると、フロントにはすぐたどりつけた。もっとも、ラブホテルのそれは客と従業員が顔をあわせないようになっている。下端に鍵や現金をやりとりするための四角い穴を、中央には会話に差し支えないよう放射状に丸い小さな穴をそれぞれ開けたすりガラスの仕切り板と小さなカウンターがあるきりだ。


 従業員用出入口はフロントから少し隔たったところにあった。開けと念じながらノブを捻ると、拍子抜けするほど簡単に開いた。速やかに入室し、鍵をかける。


 鍛えた肉体のおかげで、まだ意識は保てているし痛みも耐えられる。救急箱を探さねばならない。


 室内には、事務机が四つあった。いずれも黒いノートパソコンが置かれている。ドアのまむかいにある壁には、私物入れとおぼしき縦長のロッカーが四つあった。隙間なくぴったり敷きつめられている。そうしてできたロッカーの天井に、薄茶色の救急箱があった。手を伸ばせば届く。


 時間を無駄にせず、大股で救急箱に近よった渕山は盛大に蹴つまずいた。


「げえっ!」


 出血よりもはるかにひどいショックが、渕山の足腰を萎えさせた。


 彼を止めたのは、あおむけになって転がっている中年の男性だった。顔に血の気はなく、ひどく驚いたような表情のままこれっぽっちも動かない。身につけている薄緑色のワイシャツには、左胸のポケットに赤い糸で『ホテル 赤真珠』と刺繍されていた。


 へたりこみそうになるのを辛うじてこらえ、足の爪先で男性のすねをかなり強く踏みつけた。非礼そのものだし、ふだんならもちろんこんなことはしない。この男が佐藤とグルになって死んだふりでもしていたら最悪の結末になる。どうしても、さっさと確認する必要があった。


 やはり反応がない。どうやら死体のようだ。意味もなくここにあるはずがない。佐藤がくる前にあれこれ調べねばならないが、まずは自分の手当てが先だ。


 改めてロッカーまで進み、救急箱を手にした。それから最寄りの椅子に座り、服を脱いだ。


 救急箱を開けると、必要な物が期待通りにそろっていた。痛みの感触からして、ダメージは内臓や骨にまで至っていない。傷口を消毒して滅菌ガーゼをあてがい、包帯を巻けばすんだ。


 改めて服を着た渕山は、救急箱の蓋を閉じると死体の脇に片膝をついた。さっきは無我夢中だったから、驚くだけですんだ。こうして多少なりと落ちついてから対面すると、じわじわ恐怖が募ってくる。


 これがテレビや漫画なら、ビビってないでさっさと進めろよなどと野次の一つでも飛ばしただろう。現実に限りなく近い、半ばシミュレーションめいた環境で自分がやるとなると話はまったく別だ。


 前後左右にぶるぶる揺れる手をどうにか操って、死体のポケットをあれこれ探った。スマホがワイシャツの胸ポケットからでてきた以外に収穫はなかった。スイッチをつけて画面を呼びだすと、受信したメールの内容が現れた。差出人は『プロデューサー』とある。要約すれば、撮影現場にこのホテルを無料で使わせる見返りとして制作した映像を無償で提供するという契約だった。オプションとして、ホテルの名前をだすかどうかもホテル側が自由に選べる。


 受信メールに残っていたのはそれだけだった。メールボックスの送信欄にも一つだけあった。宛先は『佐藤』とある。今回のなりゆきからして渕山に無理心中を迫っているアイドルのことだろう。


 こちらは受信メールよりはるかに陰湿で、さすがの渕山も恐怖を忘れて背中がぞわぞわするほどひどかった。


 まずは、くどくどだらだら彼女への愛情……と、メールの送り主が主観しているところの劣情……をならべたてた文章から始まっていた。ついでプロデューサーから無償提供された映像について偉そうに論評し、今後の成長のためにも自分の意見を聴いた方がいいと押しつけがましく忠告している。最終的に、二人で酒でも飲みながらじっくり方針を練ろうと結んであった。


 キモい。ひたすらキモい。絵文字だらけの冗長な文章もキモければ、意味もなく盛りこまれた陳腐な下ネタギャグのノリツッコミもキモい。


 唯一、このスマホが役だったのは佐藤が『神捨て』に至った動機をある程度は明らかにした点にある。佐藤もここまできて真意をあやふやには……。


 ガラスが割れる耳障りな音が、見えざる鞭になって渕山をひっぱたいた。ひきつった手が、死体から回収したばかりのスマホを落としてしまった。

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