第12話 粘着の解脱 二
はっきりいって、博尾の説明はどこからどこまでが事実なのかさっぱり把握できない。部分的な事実かどうかすら不明瞭だ。こんな突拍子もない案件を納得しろという方がおかしいだろう。
「基本的には同意ですが、本業からずれたことに協力することになりますね」
左袖をもっと確かめたいのを、どうにか我慢した。それよりも、用心深く博尾の腹を探った。
「むろん、報酬は最初の約束の倍払いますよ。それに、警察に協力したという実績も箔になるんじゃありませんか?」
最終的に、博尾の最後の言葉が決め手になった。
「報酬や私の身の安全について契約書を書き換えていいなら、協力します」
「ありがとうございます。全く問題ないです」
博尾は薄く笑い、上着のポケットからテレビのリモコンめいた機械をだした。なにやらスイッチを押すと、しばらくしてドアがノックされた。
「どうぞ」
博尾の許可とともに、メイコがドアを開けた。銀色の盆を小脇に抱えている。
「お呼びですか、ご主人様」
戸口で足を止め、メイコは聞いた。
「お茶を下げて、契約書を持ってきなさい」
「かしこまりました」
メイコが一礼して入室し、渕山と博尾のティーカップを片づけて退室した。ややあって、今度は書類用の分厚く幅広な茶封筒を持ってきた。
「さ、お目を通して訂正箇所を指定して下さい。ペンはこちらにありますよ」
「はい。ありがとうございます」
「ああそうそう、いうまでもなく『神捨て』の参加者にはここでお話したことは絶対に明かさないで下さい」
博尾が念押しするのは当然だった。
「はい、心得ました」
返事をしてから、渕山は書類をめくった。一つ一つの条文を吟味しながら訂正を希望する箇所を記入した。
「終わりました。ご確認をお願いします」
ボールペンを添え、渕山は書類を博尾側にむけなおしてだした。
「ありがとうございます」
博尾が自分の記入した訂正希望を読むさなか、渕山は喉が乾いてきた。お茶は下げられているし、よほど馬鹿な人間でない限りここで所望したりはしない。
とはいえ手持ちぶさたになったところでもある。失礼でない程度に室内を見まわした。もっとも、調度品らしい調度品といえば呪宝如来くらいだ。最初から興味がない……いや。
最初に目にしたときと、なにか異なる。室内の照明は過不足ないし、渕山は眼鏡なしでも自動車をふつうに運転できる。だから、気のせいとは思えなかった。
呪宝如来の背中に、炎がまとわれている。不動明王のように派手で大きなものではない。ごく控えめに、腕や肩の陰から小さく現れている。
最初からあったのか、そうでないのか。注目していたのではないからはっきりしない。
「すみました。ご要望は全文受け入れます」
博尾はボールペンを手にしながら明言した。
「ありがとうございます」
とにかく契約を固め直して仕事を進める。渕山としてはその一点に集中するつもりだった。
渕山が安堵しかけた直後、部屋の明かりが消えた。彼の居場所が、再び急変した。
渕山は、どこかのホテルの一室にいた。ビジネスホテルよりははるかに広いものの、プラスチックで作った古代ギリシャ神殿風の飾り柱といい合成繊維の薄っぺらなじゅうたんといい安っぽさが嫌でも目につく。天井の明かりまであやふやだ。
極めつけは、部屋の中央に据えられたベッドだった。わざわざハート型になっており、ご丁寧にもラメ入りの赤いかけ布団が鈍い光沢を放っている。
利用したことこそないが、どこぞのラブホテルなのは理解できた。
これが『神捨て』なのは疑いようがないとして、はなから博尾は約束を破っている。いきなり始まってしまっているのだから、信義もなにもあったものではない。
問題は、どうやって現実世界に復帰するかだ。大声で呼びかけでもすればいいのか、ここからでれば解決に至るのか。
ただ、渕山は怒ったり抗議したりする以前に恐怖がじわじわ溜まってくるのを無視できなかった。
足元のじゅうたんから湧きあがる、ぺらぺらな感触は……鈴木の一件と同様……なんの予備知識もなければ現実と思いこんでしまうだろう。つまり、博尾の技術が超現実的なのは疑いようがない。
同時に……あくまで善意に解釈するなら……博尾の技術が未完成であるが故にこうした唐突な『没入』が起こる。本当に契約をまっとうして無事に帰宅できるのか。
悪意に解釈するなら、バーチャルだから現実には死にも傷つきもしないというのは嘘か嘘を含んでいる可能性がある。鈴木だって生きているのを確認したのではない。
無意識に腕を組んだとき、右手が左袖に触った。やはり、シミがついたままだ。
などと思案に暮れているうち、布団がもぞもぞ動きだした。
金縛りにあったかのように仰天する渕山の前で、かけ布団がめくれて一人の女性が現れた。金色に染めたセミロングと、薄桃色のブラウスが良く似あっている。歳は渕山とほぼ変わらないだろう。女性としての身体の線も滑らかで、でるところがでている。この辺り、細身のメイコとは対照的だ。
問題は、彼女の顔色と表情だった。薄暗い照明の下でもそれとわかるほど血の気がなく、ついさっき人でも殺したかのように陰気なしかめっ面をしている。派手な見映えとはまるで正反対だ。
彼女は渕山に気づいているはずだが、無視して両手を布団からだした。とたんに血なまぐさい臭気が漂ってくる。かけ布団のせいで紛らわしいが、彼女の両手は血まみれだった。それだけでも渕山を震えあがらせるには十分すぎた。
彼女は、右手で自分の顔をなでた。そのせいで、まだらな赤い帯がついた。手や顔をぬぐうでもなく、漠然と天井を眺めてぼおっとしている。
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