第2話 巣出村への案内 二
親切にしてもらった以上、無視はできない。
「いやぁ、知人に招かれまして」
田舎では誰がどうつながっているかわからない。よそ者としてはあたりさわりなく答えるのが鉄則だ。
「その知人って、ひろおさん?」
「え、ええ。お知りあいですか?」
名前まででたからには、知らぬ存ぜぬはむしろまずい。ひろおさんがこの辺り一帯の有力者な可能性も十分にある。
「そうかい。あんた、捨てにきたの?」
「捨てる?」
一瞬、不法投棄の類かと思った。
「神様を捨てるんだよ。巣出村は捨て村さね。みんな、捨てにくるんだ」
老婆は顔を上げてにやっと笑った。微笑をかなぐり捨てた、それでいて陰のある笑い方だった。たとえるなら破滅に近づきつつある人間を、それと知りつつ見殺しにするときのような。
「は、はぁ……」
「あんた、人生にいきづまったのかい?」
「いえ、そんなことはないです」
むしろ、順調といっていいだろう。
「じゃあ、捨てにきた連中を相手にしてやりな」
老婆はいっそうにやにや笑った。ゲラゲラ大声を発しはしない。代わりに顔の輪郭やシワの数々が無限大に広がっていき、周囲の風景と融けあった。老婆の肉体そのものが、服だけ残して消え去り海になった。渕山は地面にたっている。ここは山奥だ。にもかかわらず、さざ波を寄せては返す浜辺が宙に浮かんでいる。
渕山は、目を丸くしながらうしろへ一歩引いた。開いた口が塞がらず、脈が早くなる。
「ひろおさんのお屋敷なら、いけばすぐわかるから。道なりで構わないよ」
老婆は、いつのまにか元にもどっていた。
「あ、ありがとうございます」
愛想笑いなどどこかに吹き飛び、手足ががくがく震えてきた。どうにか礼を述べて、渕山は回れ右して愛車を目指した。路上で一回だけ振り返ったが、老婆はもう軒先にはいなかった。家に入ったのだろう。
ポケットから愛車の鍵をだすと、不覚にも手が滑って落としそうになる。どうにかエンジンをかけて、アクセルをふかした。民家はすぐに遠ざかった。必然的に、巣出村は近づいた。
「筋肉は裏切らない。筋肉は裏切らない」
渕山は、運転しつつも我知らず同じ言葉をぶつぶつ繰り返していた。冷や汗こそでてない反面、ハンドルにシワができかけている。そのシワがまた、老婆の顔に刻まれたものを思い起こさせた。
「うわぁっ!」
唐突に、道路脇の茂みから数羽のカラスが飛びたった。道路を横ぎり、渕山の目の前をよぎるようにして去っていく。慌ててハンドルを回し、急ブレーキをかけた。
タイヤから焦げ臭い煙が昇り、対向車線に侵入した彼の愛車は山の斜面すれすれでどうにか止まった。対向車がいたら正面衝突だったろう。
まずは愛車をバックさせて元の車線にもどし、それから車をでてざっと調べた。一応、異常なさそうだ。
物音一つしない静かな山のなかで、渕山は車内に帰らないまま空を眺めた。かすかだが富士山が見える。登山には興味のない彼だが、富士山にはそれなりに敬意を表しているつもりだ。
にもかかわらず、富士山の山裾が無限大に上下左右に広がっていった。それが変化し、はるか彼方に大海原がたたずむようになった。彼は麻薬の類に手をだしたことはない。今後とも一切ない。
渕山は、首をひねって自分の目元をつついた。海は富士山にもどった。
「筋肉! 筋肉!」
呪文か経文のようにくりかえしながら、彼はふたたび車に入った。さっさと目的地にいく以外、この異様な体験を過去にする手だてはない。少なくとも、彼自身はそう確信していた。
さらに数十分ほどして、四角四面な洋館が道の先に現れたのは芯からほっとした。赤い屋根をしていてかなり目だつ。渕山を雇うような経済力なら、これほど派手な屋敷を構えていて不思議ではない。
明らかに洋館へ続く枝道に愛車を入れると、すぐ駐車場に至った。青天井だが、普通車三台分の白線が引いてある。
気持ちを切りかえねばならない。何事も最初が肝心だ。
駐車をすませ、改めてバックミラーでツーブロックの具合を点検してから車を降りた。
スゴイワちゃんは持っていくべきか……。一分くらい迷った。しかし、かさばるので車に残しておくことにする。
そして後部ドアを開け、商売道具を入れたリュックを引っ張りだして背負いながらドアを閉める。施錠も忘れない。スゴイワちゃんも含めて盗まれて困るような品はないが、自営業をするなら特に防犯意識を保っておかねばならなかった。
駐車場から歩いて十秒とかからず、洋館の正門に直面した。高さ三メートルはあろうかという白いコンクリート塀を区切るように、黒く頑丈な鉄製だった。カメラつきのインターホンが脇についている。表札はなかった。
軽く深呼吸してから、渕山はインターホンのボタンを押した。
「はい」
滑らかだが、どこか冷ややかな若い女性の声がした。千島……千島 広尾は妻帯者だったろうか。
「すみません、トレーナーの渕山と申します。ご契約の実行に伺いました」
「少々お待ち下さいませ」
一度インターホンは切れた。
「お待たせしました。正門と玄関を開けますのでそのままお進みください」
「ありがとうございます」
渕山が礼を述べおわるのと、インターホンが切れるのと正門がかすかにガチャッと音をたてたのとが同時に起きた。
ぎいぎい軋みながら正門が開き、中庭ごしに洋館がはっきりした姿をさらした。赤い屋根はもう知っているが、こうして目の当たりにすると薄いクリーム色の壁をしていた。窓からして二階建てのようだ。中庭は左右対称に四角い植えこみがあり、それらに挟まれたレンガ道が玄関まで続いている。
レンガを踏みしめながら歩くと、背後で正門が自動的に閉まった。振りむくまでも……。
「お前を燃やせばいいんだろ!」
左手の植えこみから、聞き捨てならない叫びが渕山の鼓膜を襲った。いくらなんでも仰天しない方がおかしい。
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