白装束の女

増田朋美

白装束の女

「ずっと後悔の念が取れないのです。」

影浦の前で話す女性は、まだ30代そこそこの若い女性だというのに、もう人生疲れ果ててしまったような、そんな顔をしていた。

「わかりました。それではまず、あなたが何について悩んでいるのか、それをお聞かせ願いますかね。」

影浦が手書きのカルテを開きながらそう言うと、

「先生は、症状がどうのとか、そういう事は聞かれないんですね。それに、電子カルテを導入しないなんて、昭和レトロですね。」

女性は、影浦が持った鉛筆を眺めていった。

「ええ、パソコンより、紛失する心配が無いですからね。それより、悩み始めたきっかけとか、そういうものをしっかり話していただきましょうか。松永千晴さん。まずはじめに、職業とか、家族構成とか、そういう身近なところから話してもらいましょうか。」

影浦がそう言うと、

「はい。初めから聞いてくれる精神科の先生なんて、珍しいわね。私の名は確かに松永千晴。家族は、父と、母と一緒に暮らしてます。先日までは、夫と娘がいましたが、ある事情があって。職業は、介護施設で働いています。こんな感じでいいですか?」

と、松永さんは答えた。

「そのある事情とは、どんなものですかね?」

と、影浦が聞くと、

「はい。口に出して言うのは、すごく辛いんですけど、娘は、なくしました。というより、盗られてしまいました。私、バツイチなんです。五年間結婚していましたが、娘を育てるには、母親不適格だと言われてしまいましてね。」

と、彼女は言った。

「そうですか。それで、娘さんは、生存しているのですか?」

と影浦は聞いた。

「ええ。きっと、健康なお母さんと巡り合って、幸せに暮らしているんじゃないですか。私なんかより、ずっと健康で、ちゃんと働けて、ちゃんと育児ができて、ちゃんとお金もあって。そうでなければ、娘は幸せになれないって、元主人のお母さんから言われたことがあります。その予防のために、離婚しろと言われましてね。私は、そのとおりにしましたが、娘がいなくなったら急に寂しくなってしまって、何もできなくなってしまいましてね。それで、なんか何もする気にならないんです。離婚して、実家に戻りましたが、なんか何もしないで、布団にずっといるものですから、父や母がすごく心配しましてね。介護施設で働くのを勧めてくれて、今、短時間だけ働かせてもらっていますが、なんであのとき、娘を手放すのは嫌だって言えなかったのかなって、すごく、落ち込んでいるんです。それで、インターネットで家から近いクリニックを探して、今日やって来ました。」

と、松永千晴さんは、ちょっと閊えながら言った。

「そうですか。僕の経験から言うと、娘さんがなくなっているより、生存している方が、娘さんを盗られた悲しみは大きいようです。」

影浦は事実を言うと、

「ほんとに!先生わかってくださいますか!私、本当に辛いんですよ。だって私が産んだ子を育てられなくて、誰かに盗られてしまったんですもの。私は、そうなりますと、社会で何にも役に立てない人間だと思われても、仕方ないですよね。」

松永千晴さんはそういった。

「わかりました、まずはじめに、薬を使って、絶望感を和らげましょう。そうなったら、また次の目的ができるかもしれません。残念ながら、精神科医にできることはね、これだけなんですよ。あとは、あなたが、悲しみを乗り越えなければならないんです。そのためには、どうするかは、こちらではなんとも。本当にね、医者なんて、そういうことしかできないで、なんの役にも立ちませんよね。とりあえず、あなたには、抗不安薬と、漢方で自律神経を安定させるようにしてみましょうか。とりあえず処方箋を出しておきますね。」

影浦はカルテに書き込みながら言った。

「そうなんですね。乗り越えられない試練はないって言うけど、私、乗り越えられる自信がありませんよ。」

松永さんは言った。

「そうですか。それは、今の時点でそう思っていることであって、薬でなにか変わったら、また考え方も変わるかもしれません。まず、その時が来るのを静かに待ちましょう。その時が来るのを待つのも立派な希望ですよ。変わるときが来るのを待つ時間というのも必要なのではないでしょうか。」

と、影浦は鉛筆を置いて、処方箋を彼女に渡した。

「それを、隣の薬局に持っていって、おくすりをもらって帰ってください。くれぐれも、お大事になさってくださいね。そして、変わるのを静かに待つんです。このとき大事なのは、待ってる間にジタバタしないこと。できるだけ静かに待つんですよ。それを忘れないでね。」

影浦は、にこやかに笑った。

「ありがとうございます。先生。そういう事言ってくれて、なんか少し楽になりました。私は、なんてだめな人間なんだろうと思っていたけど、それは、変わるために立派な希望だとおっしゃるのなら、私もその時を待つときにします。」

松永千晴さんもにこやかに笑った。

「ときに三歩進んで二歩下がる的なことがあると思うけど、そのときは、薬を飲むなりして対処してくださいね。それは悪事であると絶対思わないこと。それが、精神を守る方法でもあるんです。」

影浦がそう言うと、

「ありがとうございます。今日は、先生に話せて良かったです。なんかちょっとだけでも気持ちが変われば、それは進歩だってこともわかりました。私、がんばります。ありがとうございます。」

松永千晴さんはそう言って、患者席をたった。そして、

「ありがとうございました。薬がなくなったらまた来ます。」

と言って、診察室を出ていった。その時は、松永さんのことを、ただの患者としかみなしていなかった。他の患者もいるので、あまり気にもとどめていなかったのであるが。

それから数日後のことであった。影浦が、その日の診察を終えて、自宅に帰ろうとしたところ、影浦のスマートフォンがなった。

「はい、影浦です。」

「影浦先生。私、松永千晴の母でございます。先日、先生に診察していただきました松永千晴です。あの、とてもいいにくいことですが、千晴が、大量に薬を飲んで死のうとしたんです。多分、先生のところからもらってきた薬だと思うのですが。今朝、朝食を食べたあとに、お酒と一緒に大量に薬を飲んだようで、、、。」

電話の主ははっきりをそう聞こえてきた。

「わかりました。しかし、僕が処方した薬は、致死量に至る量は処方していないはずなんですけどね?」

影浦は自分は危険な薬を出した記憶がないので、困った顔で言った。

「ええ、それは、そうなんですが、娘は、色んな精神科を巡っては、死ぬために薬をもらっていたようなんです。」

という電話主に、

「それではお母様にお聞きします。娘さんが、あなたに取ってはお孫さんだと思いますが、離婚して元ご主人が娘さんを引き取ったというのは事実でしょうか?」

影浦はそう聞いた。電話主のお母さんは、

「ええ。そうなんです。それは間違いなくそうです。」

と答えた。

「わかりました。それで、娘さんはその元ご主人のところにいるというのもまた事実ですか?」

と影浦が聞くと、

「ええ。なんでも、元ご主人は、海外で女性と再婚して幸せに暮らしているそうです。私には、手の届かないところに行ってしまったと、千晴は嘆いていましたから。それもなんだか理不尽な事かもしれないんですけど、統合失調症が強かった娘には、無理だなと思ったことも、たしかにありましたから。」

と、お母さんは申し訳無さそうに言った。

「そうですか。統合失調症と診断されたのはいつですか?手帳や、福祉制度には申請したのでしょうか?」

影浦が聞くと、

「ええ。二十歳前後で発症したんですが、孫が生まれて更にひどくなりました。なんでも、白い服を着た女性が、孫を取ろうとするということで、随分大暴れをしたことがありました。影浦先生のところに来る前に見ていただいたお医者さんには、幻覚の症状があると言われたことがあります。母親なんだから、そういうことも乗り越えてと私はいいましたが、何も変わりませんでした。もっと私が、こうなる前に、厳しく言っておけばよかったのでしょうか?」

とお母さんは電話でそう言っている。

「お母さん、個人的な思い込みはやめてください。自殺未遂を起こした人の親御さんは、だいたい自分が悪いというのですが、そのような気持ちは、何も意味が無いんです。それよりこれからどうするのかを考えないと。まずはじめに、僕もそちらへ向かいますから、娘さんはどこの病院に搬送されて、面会は可能なのか教えて下さい。」

影浦がこういう事はなれているようにいうと、

「はい、富士中央病院です。面会は、今は非常に不安定なのでできないそうです。先生、これから、あの子は更にひどくなるんでしょうか?」

とお母さんは怯えたように言った。

「ええ。多分自殺に失敗して、ますますひどい引きこもりになると思います。でも、それを責めるような言葉を言ってはいけません。娘さんが悪いわけではないのですから。お孫さんを、盗られてしまったのは、何よりもそれだけ耐え難い事実だったと受け止めて上げることが大事です。」

影浦はしっかりと言った。

「少なくとも、お母さんが悪いわけではありません。これからはお母さんにも治療者の立場に立ってもらわなければ。娘さんが、こちらに帰ってきたら、まずはお母さんが、娘さんをしごいてやらなければなりません。お母さんがその立場に立たなければ。それを忘れないでくださいね。」

「わかりました。私にはできるかわかりませんが、私もがんばります。」

お母さんは影浦の発言に対して、わかったという口調で言った。

「ええ。娘さんを治すことは、お母さんを治すことでもあるんですよ。だから、一緒にやっていきましょうね。」

影浦は、そう言って彼女を励ました。

「ありがとうございます。私は、無茶なことはしません。先生、ありがとうございます。母は強しです。」

「娘さんが、面会できるようになったら、教えて下さい。」

最後に影浦はそう言って、電話を切った。まずは、松永千晴さんの元を訪れて、お話を聞きたいと思ったが、面会ができないのであれば、それは無理である。あとは、搬送された病院で、彼女が自殺を図らなければ良いのだが、、、。影浦はそこが不安だった。

その翌日。富士中央病院から、影浦に電話がかかってきた。なんでも、松永千晴さんの意識が戻ったという。数分なら話してもいいと言うことなので、影浦は、中央病院に行った。受けつけで松永千晴さんはどこにいるかと聞くと、集中治療室にいると言って、彼を通してくれた。一応病院にいるとはいえ、千晴さんは自殺を図るおそれがあることから、ベッドの隣にSPのような、看護師がついていた。影浦は、とりあえずその日は千晴さんの顔をガラス越しに見ただけで帰ることにした。千晴さんは、影浦の顔を見てくれたのか不詳だが、いずれにしても、自殺に失敗してつらそうな顔をしているだけではなく、なにか寂しそうだった。

その翌日。また影浦のスマートフォンに電話がかかってきた。何だと思ったら、また富士中央病院からで、千晴さんが影浦と話したいと言っているとうことである。影浦は、診察が終わったあと、中央病院へ向かった。千晴さんはまだ集中治療室にいたが、影浦が部屋に入ると、

「先生。来てくださったんですね。私、びっくりしました。母が知らせたんだと思いますけど、まさか本当に来てくれるとは思わなかった。先生だけですよ。家族以外の人で私のところに来てくれたのは。」

と彼女は言うのだった。

「そうですか。患者さんになにかあったら、来訪するのが医者の勤めです。」

と影浦はにこやかに言うと、

「ありがとうございます。私、本当に死ねたら良かった。先生から薬もらって、抗不安薬を、お酒で30錠飲みました。でも、死ねなかった。死ねたら、あの女性に悩まされることももう無いと思った。」

と千晴さんは言った。

「そうなんですか。それでは、医者としての質問ですが、その女性について教えて下さい。どんな女性だったんでしょうか。彼女は、あなたの前に度々現れていたようですが?」

影浦は、医者らしく言った。

「ええと、白いスカートを履いて、白いブラウスを着た女性で、私よりもずっときれいな人で、娘が寝ようとしているときとか、そういうときに現れて、娘をあやしていくんです。」

と、彼女が言った。

「そうですか。白装束の女性なわけですね。どこかの伝説にでもありそうな。その女性は、あなたに向けてなにか言ってきましたか?具体的に彼女と話したりすることはありますか?」

と影浦が彼女にいうと、

「はい。具体的に悪口を言うなどの悪事をしたことはありません。ですが、娘をあんまり上手にあやすので、私は娘が彼女の方になついてしまうのではないかと思っているのではないかと思いまして、怖くなりまして。」

松永千晴さんはそう答えた。

「わかりました。それは、精神医学でいいますと、幻覚という症状なんですね。しかし、そういう症状は実在のモデルがいることは、他の患者さんの症例を見ればわかります。あなたが見ている女性で、実際に娘さんに口を出した女性は、いませんでしたか?よく思い出してみてください。もしかしたら、相手がしたことはほんの些細なことだったかもしれません。しかし、それが症状となって現れることもあります。なので、どんな女性でもいいです。あなたの育児や、母親としての態度に、批判的な態度を取った人物がいなかったか。よく思い出してみてくれませんか?」

「私が見ていたのは、実在の女性ではなかったということですか?」

影浦が説明すると、千晴さんは驚いた感じで答えた。

「はい、そういうことになりますね。松永さん。実在の人物で、モデルになった女性はいると思いますが、あなたがそれを無意識に思いすぎた事により、あなたの心で幻覚になってしまっているのですよ。だから治療の一環として、モデルが誰なのか、思い出してほしいんです。」

影浦が医者らしく言うと、

「わ、わかりません。だって私は実際に白装束の女性が見えていたんですから、、、。」

と、彼女が言うのだった。側にいた看護師が、彼女をこれ以上混乱させないようにといったので、影浦は、

「じゃあ、その女性のことを思い出すことができたら、連絡をくださいね。」

とだけ言って、病院をあとにした。

そのまま、影浦は、蘭の元を訪れた。蘭は、影浦がなぜ自分のところに来たのか、びっくりしていたようであったが、

「そうですか。影浦先生も重度の方を見ていらっしゃるんですね。精神科の先生も大変ですね。」

と、影浦の話を聞いていった。

「ええ、彼女は白装束の女性が見えたと言っていまして、その女性が娘さんに危害を加えていると話しているのですが、彼女自信は実在の人物であると思いこんでいるようで、幻覚の女性であるということは自覚していません。確かに、病気の女性によくある症状なんですが、彼女はもしかしたら、その女性に娘さんを盗られてしまったと思っているのではないでしょうか?」

「そうなんですね。そうなるまで、精神疾患が悪化してしまった女性がいるのですか。それで実際に娘さんと分かれることになってしまっても、仕方ないかもしれませんね。」

蘭は、影浦の話しにそう答えた。確かにそうなってしまうのであれば、育児はできないと判断されて、子供を安全なところにいかせようと考える人もいるかも知れなかった。

「そんな女性でしたら、もしかしたら、子供を道連れにして自殺してしまうことも無いわけじゃないですものね。それで、影浦先生、今日は僕になんの用があってこられたんですか?」

蘭が影浦にそうきくと、

「はい。蘭さん、彼女が退院したら、二度と自殺をしないように、なにか吉祥文様を彫ってあげてください。」

と、影浦は答えた。

「僕がですか?具体的に何を彫ればいいんですかね。」

蘭が言うと、

「ええ、松竹梅とか、そういう吉祥文様でいいんです。蘭さん、あなたの腕前を僕は高く評価しますし、蘭さんのような人がいることで、リストカットなどに苦しむ女性が減少していることも知っています。だから彼女に彫ってあげてほしいんですよ。お願いできますね?」

と、影浦は答えた。

「ああ、わかりました。きっとその女性も、白装束の女性を幻覚だと思ってくれるかもしれないですものね。お引き受けしますよ。それにしても、先生は大変ですね。そういう激動の人生というか、そういう人を何十人も見て。」

蘭が影浦をねぎらうように言うと、

「いえいえ、僕ら精神科医にできることなんて、それくらいしかありませんよ。こういう仕事をしていると、自分の不完全さとか無力さが本当によくわかりますから。そういうことを考えれば、蘭さんのほうがよほどすごいですよ。だって実際にリストカット痕を消したりできるんですから。薬でどうのということをさせるより、すごいんじゃないですか。」

影浦は、ちょっとため息をついていった。

「でも、影浦先生も、僕も同じことは、悩んでいる人の人生をなんとかしてあげられることじゃないですか。僕も彫った人の話を聞いて、よく思うんです。僕達がしていることは、ほんの些細なことかもしれないですけど、きっと彼女たちに取っては、おっきなことなんだろうなって。だからこそ、刺青師として、やらなくちゃなと思うんですけどね。先生も僕も仲間同士ですね。」

蘭は、そういう影浦にそう笑いかけた。

「そうですね。とりあえず松永千晴さんが戻ってきたら、一人では彼女が白装束の女に別れを告げることは難しいでしょうから、お互い二人で、彼女を援助していきましょうね。」

影浦が言うと蘭も、

「わかりました。僕もなんだか重大な使命を与えられたような気持ちですが、彼女のことを思って、がんばります。」

と、にこやかに笑った。援助者とクライエント、あるいは援助者どうしても、人間は誰かと繋がっていなければならないのだ。



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白装束の女 増田朋美 @masubuchi4996

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