第37話 晒しもの
「宜しかったのですか?」
馬車に乗り込むと同時に、アンソニーは心配そうに言った。
「もう、あんな辛気臭い場所にいると吐き出してしまいそうになる。彼等の興味は、見られたものじゃあない。被害者の関係者の前で、晒しものにされるのはご免だよ」
この時、アンソニーは初めてパーシーが怒る姿を見た。スチュアートの時でさえ、何も動じなかった主人が、今己に向けて、怒りと言う感情をあらわにしている。この表情は、己だけが知っているのだ。今、狭い馬車という空間の中で。
屋敷に戻ると、ハウスキーパーのヒルダが丁度通りかかった所だった。
いや、もしかしたら、パーシーの事を心配して待っていたのかもしれない。
「お早いお帰りですね。向こうで何かございましたか?」
「相も変わらず察しが良いなぁ、ヒルダ」
「私は怒ってなどいませんよ? ただ、パーシー様が社交界についていけなくなるか、不安に感じるだけです」
ヒルダが首からぶら下げた鍵の束が、じゃらりと音を立てる。全ての部屋の合鍵だ。
「まぁ、この先暫くはアフタヌーンティーでの話題は、スチュアートの話になるだろうね。少し参加するのが億劫なだけだよ」
「ブラックモア伯爵様とは幼馴染でしたものね。彼について、余り触れられたくない事も判ります。その時は、パーシー様もご無理をなさらない方が、お母様から託された身としては安心致します」
「有難う、ヒルダ」
ステッキをアンソニーに預けながら、パーシーは言った。
「お時間から言って、向こうで何も召し上がっておられないのでしょう。女王様のお決めになった夕飯の時間迄、些か時間があります。モーリスに何か作らせますか?」
「いや、少し疲れてしまったよ。揺り椅子で眠りたい」
「畏まりました」
ヒルダは膝を折った。
「せめて、お紅茶を用意させましょう。冷めても味の落ちないものを。後程、エメリーが運んでくるでしょう」
「判った。それは頂くよ」
そう言って、パーシーは自室への道を急いだ。中々の速足に、ついて行くアンソニーの額に汗が滲む。余程、あの場にはいたくはなかったのだろう。
敵だらけの悪の巣窟にも、彼には感じられた筈だ。
アンソニーが部屋の扉を開けると、パーシーは上着をジャケットを寝台に投げつけ、シャツ姿で揺り椅子に身を預けた。
すぐに扉が叩かれる。アンソニーが出ると、ティーセットを持ったエメリーの姿があった。
「出たのがパーシー様でなく、あんたで良かった」
アンソニーがセットを受け取るのを見ると、彼は頭を搔きつつ告白した。
「少量だが、睡眠剤が混ざっている。この前のカモミールティーに入れたのと同じものだ。今度はヒルダさんの指示でな。夕食の時間までせめて眠っていて欲しいのだろう。あの人からの指示なんて、珍しい事だ」
「判りました。有難うございます」
アンソニーは頭を下げた。
珍しい事。その一言が、脳に引っかかる。
ジークローヴ子爵邸迄付き添っておきながら、パーシーの些細ない態度の変調迄見てやる事の出来なかった己は、ヴァレット失格だろうか。
そんな事を思いながら、彼はテーブルにティーセットを置いた。
香り高い湯気が、ポットから注がれた紅茶より溢れ出でる。睡眠剤は本当に無味無臭のようで、パーシーは半ば重い瞼を押し上げ、ティーカップを手に取った。
「……君が淹れてくれた紅茶は、いつも美味しいね」
“薬”の存在をしらない主はそう言って頬笑んだ。
「茶葉の、お陰でしょう」
アンソニーは呟く。
「——眠いな」
紅茶を飲んで暫くすると、パーシーは幼子のように目を擦った。
「この儘、お眠り下さい。あなたは私がお守りします」
揺り椅子が揺れる。シャツとズボン姿の彼に毛布をかけてやりながら、アンソニーは言った。
「夕食には、起こして呉れ給え……」
そう言って、パーシーは目を閉じる。
やがて微かな寝息を聞くと、アンソニーはもう一つある椅子を、パーシーの隣へと運んできて背凭れに腕を絡ませるように腰を下した。勿論揺り椅子ではない、堅い只の木で作られた椅子だ。
扉が叩かれたのは、その時だった。
アンソニーは立ち上がり、扉の前に行く。開けば、オズワルドの姿があった。
「パーシー様がヒルダの睡眠剤で眠っている事は判っている。だから、君が出るだろうことは予測していた」
老執事はモノクルを煌めかせ、
「先程連絡があってな。明日、ブラックモア伯爵夫妻の葬儀が行われるらしい。彼らはかなり遠くの領地から来ている。朝食は、特別にサンドイッチを包ませるので、それを忘れんように」
「判りました」
アンソニーは頷いた。
「では、八時にパーシー様をお起こして、その儘喪服に着替えさせて玄関に迎えば良いでしょうか?」
「君が聡明な男で助かる。宜しく頼む」
「はい」
そう言って、オズワルドを見送った。
再び、二人きりの部屋となる。アンソニーは再び椅子へと逆向きに座った。
不意に思い立って、懐からスキットルを取り出し、中に入れた蒸留酒を呷る。酔いは回るが、醒めるのも早い。パーシーが起きる頃には、素面になっている筈だ。
「疲れたな……」
髪をかき上げ、ひとりごちる。
ジークローヴ子爵邸のアフタヌーンティーの会場についた時の、そこに集う者達の視線に、もっと早く気が付くべきだった。それならば、すぐにパーシーを連れ出す事が出来たのに。後悔は、いつも後から囁いてくる。
人知れず、腹の虫が鳴く。そう言えば、約束した昼食を摂る事が出来なかった。夕食の際で良いだろう。皆、待っている筈だ。
その上、今日のこの出来事だ。尽きる事のない同僚達の好奇心は、更に膨らんだ事だろう。余り、人と話す事をしないアンソニーにとって、勇気づけられる半面、己とパーシーの仲を干渉される。少し使用人用の食堂への足が遠のいてしまう事も、あるのも事実だ。
だからこそ、パーシーは“あの小屋”へと案内したのだろうか。
今や、背徳の香りが漂う、埃臭く古い小屋へ。パーシーは、裏切りを許す事はないだろう。スチュアートの時でさえ、冷めるような眼差しで“親友”を見ていたのだから。
ならば、殺される前に殺してしまえばいい。獅子のような鋭い牙で彼の首筋に傷を負わせ、その流れた血の味を確かめる事が出来たのならば、パーシーは永遠に己のものになる。
そこまで考えて、クロイドン巡査部長の声が蘇った。
——いつか、あの人の持つ正義に殺される。
「“俺”は、それでもかまわない」
黄昏時の暗い中で、彼は吐くように呟いた。
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