第38話 厄介ごとのあとに
やがて時計の針は夜八時を指し、女王に倣ったように遅い夕食時がやってきた。眠気眼のパーシーの瞳が、アンソニーを映した時、彼は静かに揺り椅子から立ち上がった。
「眠り過ぎてしまった。早く食堂に向かわなければならないね」
と、パーシーは苦笑する。
「そうですね」
アンソニーは椅子から身を離し、ゆっくりと答えた。
「この位置にいたという事は、君は僕の寝顔を見ている事だろうね」
寝台に投げた上着を羽織り、パーシーは鋭く言った。
「とても、愛らしい寝顔でございましたよ」
アンソニーが言うと、
「それはレディに向かって言う世辞だよ? 主人に愛想を振りまいてどうするんだい。特に、僕と君の仲だろう?」
それは、どのような意味合いなのだろう。パーシーにとって、今己はどんな位置にいるのか。それだけが、知りたかった。
しかし、それは許される事ではないのだろう。
「夕食を摂りに行くよ。サーブを宜しく」
「畏まりました」
すっかり元気になって、いつも通りの笑顔をパーシーは向けてくる。
そう言えば、彼は気が付いているのだろうか。昨日の、夜の事を。
食堂につくと、すぐに控えていたエドワードがアンソニーへと食事を渡した。蓋がしてある為、中身も、その香りすら判らない。恐らく、己が運び、蓋を開ける。その料理を、エドワードが紹介する。
モーリスの立てた算段は、そんな所だろう。
まずは前菜がパーシーの前に置かれる。やはり、エドワードが近づいてきた。
アンソニーがその蓋を開けると、華やかに彩られた生野菜と、鰻のゼリー寄せが乗せられていた。
「農場で育った野菜と、管理されている小川に鰻がおりましたので、今夜の前菜は鰻のゼリー寄せにさせて頂きました。鰻は庶民の食べ物ですが、栄養価も高いので、前菜となっています」
すらすらとエドワードは言葉を綴る。声変りが終わった直後の、カストラートのようなその声には、自信すら感じさせた。
「美味しそうだね。主食はなんだい?」
パーシーの言葉に、エドワードは一瞬黙ったが、すぐに頭を切り替えたように、
「フィッシュパイになります。魚は、タラになります」
と、答えた。
「君は、頭の回転が早い子だね。僕の後継者になる前に、モーリスに取られてしまったけれど」
パーシーは苦笑交じりに答えた。
やがて夕食も終わり、パーシーは自室へと戻った。眠る時間だ。
「そう言えば、夕刻に執事のオズワルドさんがいらして、ブラックモア伯爵夫妻の葬儀が明日行われるという事でした。サンドイッチを包んで朝食に持たせて呉れるとの事です」
「成る程」
寝巻を着せられる儘になりながら、パーシーは相槌を打った。それから、
「今日は付き合ってくれて有難う。アンソニー君」
寝巻の釦をはめるアンソニーを見ながら、彼は言った。
「明日は早いからね。今夜は、自分の部屋で寝給え」
「大丈夫ですか?」
「あぁ、きっとね」
主人の曖昧な返事に、ヴァレットは不安を覚えたが、本当に助けがいる時にははっきりとものを言う主人だ。その彼が大丈夫だと言うのだから、そこは甘えてみよう。
「判りました。何かありましたら、遠慮などせずにベルを鳴らしてください」
「そうだね」
アンソニーが掛布を持ち上げている内にその中に身を滑らせると、パーシーは枕に埋もれたような形になった。
「お休み、アンソニー君」
「あなたも。パーシー様」
いつも通りの言葉を交わし、アンソニーは廊下に出た。
廊下は、晩秋の気配が近づいていた。思えば、もう季節は11月に差しかかるのだ。
アンソニーは足早に使用人用の食堂に向かった。己の武勇伝を早く語りたかった訳ではない。ただ、心が生き急いでいた。
「こんばんは」
使用人用の食堂の扉を開くと、大勢の屋敷に仕える者達で溢れていた。いつもは遅くに訪れるので、余り顔を合わせた事のない者達の姿もある。
「あ! アンソニーさん! こっちです!」
キャサリンが手を上げる。どうやら、己の為に席を取っておいてくれた様子だった。
「有難うございます」
アンソニーは狭い人の間を通り、奥へと向かう。そこは、彼女の隣の席だった。
「本当にキャサリンはアンソニーの事が好きなんだな」
それを見たピーターが苦笑する。
「ち、違いますって!」
キャサリンが、頬を赤らめている。
「季節遅れの春の便りか?」
ピーターの隣に座っていたジェイクが、頬杖をついた。
「少し、興味があるね」
「だから、ジェイクさんも……!」
良い大人二人にからかわれて、18の娘は戸惑っている。
にやにやと笑う彼等を止めたのは、鶴の一声だった。
「良い加減にしたらどうです。ほら、食事を終えたら、各部屋に戻って下さい」
「ヒルダ、様……」
思わぬ救世主に、キャサリンは目を見開いていた。
「別にあなたの為を思っての事だけではありませんよ、キャサリン。彼等は最近ここに長居し過ぎるのです。幾らスカラリーとは言え、エドワードの体内時計を狂わせる事はあってはなりません。ほら、あなたもスープを飲み終えたら寝室に行くように」
「はーい」
手厳しい言葉に、若いメイドは適当な言葉を返した。彼女は、まだ食べている最中の様だ。
「なァ、今日はアンソニーの武勇伝を聞くんだ。少し位良いだろ?」
ピーターが、珍しく格上の使用人に逆らう。いや、もしかしたら、見ていなかったのは己だけだったのかもしれない。
「何が武勇伝ですか。今回の事件では死者が4人も出たのです。それを、笑いものにして、殿方は何が面白くて?」
「……うっ」
言われた言葉が心に刺さったのだろう、ピーターは胸を押えた。
「判ったよ。アンソニー、また今度教えてくれ」
そう言って、彼は立ち上がった。
「はい、いつでも」
食事を食べ始めつつ、アンソニーが答える。
「じゃあな。良い夢見ろよ」
「はい」
去って行くピーターに、アンソニーは笑みで返した。
気が付けば、既に使用人の半分が、既に食堂を後にしていた。
「皆さん食べるのが早いのですね」
思わずアンソニーが言うと、
「食事も仕事の一つ。それ以外に、沢山の仕事を抱えているのさ。君だってそうだろう?」
そう、ジェイクが答えた。
そう言われてみれば、そうだろうか。アンソニーは暫し考えた。確かに、ヴァレットとして常に主人——パーシーの傍にいる事が己の仕事だ。
余り、パーシーを一人にしておいてはいけない。それは、単なる心配から来るものか、はたまた、何か別の、謝罪にも似た、朧げな感情なのか。
今はそれを、考えたくはなかった。
「それでは、失礼します」
考え事をしながら賄い飯を食べていたら、いつの間にか皿が空になっていた。アンソニーは腰を上げ、未だに少し未練の影を落としているキャサリンから離れた。
「もう行っちゃうんですか?」
娘は愛らしく首を傾げる。
「明日は、ブラックモア伯爵夫妻の葬儀の日です。朝食前に出なければ間に合わないので、今日は早めに眠ろうと」
「そうか、もう葬儀の準備は整ったんだね」
ジェイクが言った。
「はい。先程、オズワルドさんが電話を受けたと言う事で……」
「今日に続いて明日もか。パーシー様は大丈夫なのか?」
「私が、お守りします」
覚悟のように、アンソニーは言った。
「良い騎士だね。パーシー様も嬉しいだろう。それじゃあ、お休み」
「はい、皆さんも」
アンソニーはそう言って、食堂を出ていった。
一晩ぶりの自室に戻ると、どっと疲れが込み上げてきた。襲い来る眠気を打ち消すように、靴を脱いで、寝台に倒れ込んでいた。
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