第29話 水車小屋にて
翌朝、鳥の囀りに目が覚める。時刻は7時を指し、使用人用の食堂で朝食を取るには、まだ早い時間だった。今頃きっと、厨房にて作られている途中だろう。
「ん……」
寝台に座り、身体を伸ばす。
もう少し眠っていたいが、身体が許さないようだ。すっかり目が冷めている。思い切って起き上がり、仕着せに着替えた。
昨夜は、パーシーからの呼び出しのベルが鳴る事はなかった。カモミールティーが効いたのだろうか。
扉が叩かれたのは、髪をセットしようと、整髪剤を手に取った時だった。
「アンソニー君、いるかい?」
声の主は、何処か弾んだ声色で、アンソニーの名を呼んだ。
「パーシー様?」
驚いて扉を開けると、そこには寝間着姿のパーシーが立っていた。
「どうなさったのですか」
「いやぁ、いつもよりも早く起きてしまってね。暇を持て余しているのだよ」
この陽気な主人は前髪を下したまま、朗らかに笑った。
「取り敢えず、着替えて御髪を整えましょう。まだ朝食にも早い」
「偶には、君と領地を散歩してみたいね」
「取り敢えず、せめてお着替えを」
重ねるようにアンソニーは言った。
「判ったよ。それならば髪もセットして呉れ給え」
「判りました」
ヴァレットはそう答えて、主人と共に己の部屋から出た。
ふと見れば、パーシーの履いた靴の紐が解けている。
「パーシー様。少し立ち止まってください」
跪いて、アンソニーは言った。そうして己の膝を目で指し示し、
「靴紐が解けております。お足をこちらに」
「あぁ、すまないね」
パーシーはアンソニーの膝に靴紐の解けた足を乗せた。微かな体重がかかる。一瞬高鳴った鼓動を抑え、アンソニーは主人の靴紐を結び直した。
「終わりました」
「有難う。アンソニー君」
パーシーが足を退ける。
「いえいえ」
思わず、はにかんでいた。
「行きましょうか」
立ち上がり、アンソニーは言葉を継いだ。
「そうだね」
パーシーが頷く。そうして、歩き出した。
パーシーの自室に着いた時、開けられた窓から秋の風が吹きこんできた。カーテンが風に大きく揺れる。どうやら、換気の為にパーシーが己から開けたようだった。
「少しばかり暑かったからね。自分から開けてしまったよ」
軽い口調でパーシーは肩を竦めてみせる。
「大丈夫ですよ。秋の風は心地が良いのです」
「アンソニー君。君は秋が好きなのかい?」
寝間着の釦を外しながら、パーシーが首を傾げた。
どうだろうか。アンソニーは思考していた。父が、秋が好きだった。そんな記憶しか、彼にはなかったのだ。
「……どうでしょうね」
曖昧な返事に、パーシーは苦笑交じりに、
「君は秘密主義だね」
と、口角を引き上げた。
「それはあなたもでしょう」
シャツの釦を止め、履かせたズボンとサスペンダーとを結び、アンソニーは言う。後は首元のリボンタイだけだ。
「失礼します」
襟元にタイを回し、蝶々結びをする。なるべく首を圧迫しないように。そこは気を使う所だろう。
もし、その儘首を絞めてしまったら、己はどうなるのだろう。
死刑になれば、この罪も赦されるのだろうか。
「考え事かい? アンソニー君」
「え、あ、はい」
不審に思ったパーシーに、声をかけられる。彼は椅子に座り、アンソニーを待っていた。最近はどうかしている。
それは、己でも判っている事だ。
「まぁ、事件に動揺している事は、僕にも判るよ。やはり、僕が容疑者になっている事もしかりだろう?」
「参ったな……」
整髪剤を手に取り、アンソニーは言った。
「あなたに解けない謎はありませんね」
するとパーシーは自慢げに、
「謎には必ず答えがある。それを証明してみせただけだよ。それにしてもアンソニー君、君がそこまで僕を想っていて呉れているなど、嬉しい限りだね」
「あなたを敬愛しているか……」
思わず口から零れた言葉にアンソニーは口ごもった。
これは、誰にも悟られてはならない事だ。しかしパーシーはさして気にしていない様子で、
「有難う。こんな主人でも、ついてきてくれる者がいるなどとね」
と、笑った。
やがて、髪のセットを終えて、寝ぐせの隠せないだらしのない青年貴族から、立派な英国紳士に姿を変えたパーシーは椅子から立ち上がり、差し出されたステッキを手に取った。
「さて。君と仲の良いメイドのキャサリンの家族が守る庭を案内しようか。君は余り見た事がないだろう?」
「そうですね。しかし、パーシー様」
扉を開けながら、アンソニーは言った。
「何だい?」
「朝食迄にはお戻りにならないと」
「判っているよ。大丈夫さ、紹介したいのは庭の一辺だけだよ」
そう言いつつ、二人で廊下に敷かれた絨毯の上を歩く。
「君の髪も、後でセットをしないとね」
「パーシー様が朝食を取られる前にセットするので、大丈夫ですよ」
「それは有難い」
こうして笑い合っている瞬間が、永遠に続けば良い。そんな事を思ってしまう。
「そう言えば、パーシー様」
「何だい?」
ヴァレットからの問いかけに、主人はあくび混じりに振り向いた。
「何故、私とキャサリンが仲が良いと?」
するとパーシーはステッキで床を幾度か叩いた。
「君の他にも僕に情報提供をしてくれる間者がいるという事さ」
そう言って、笑った。
やがて、庭に続くバルコニーへと至る。アンソニーが窓を開けると、カーテンが風に揺れた。それに、まだ整えていない前髪が波打つ。パーシーはそれを見ると、
「前髪を下ろしている君も、中々の色男だね。アンソニー君」
と、白い歯を見せた。
「偶には、見てみたいな」
「パーシー様が何のご予定のない休日などにお見せ致しましょう」
バルコニーへと先に降り立ったアンソニーは言った。その儘、窓の近くに立つと、パーシーへと手を差し伸べた。何の疑いもなく、彼はその手を取る。
これが、一年間培ってきたものの芽生えだろうか。
「ここからは僕が案内をするよ」
そう言って、パーシーは先頭に立って歩き始める。追いつくように歩幅を合わせると、彼の纏う香水の香りを微かに感じる事が出来た。
間もなく、薔薇の園が見えてくる。秋薔薇が、蕾を綻ばせ始めていた。その奥に、田舎家を模した建物がある。水車が回り、小川のせせらぎが聞こえた。
「ここは?」
アンソニーが首を傾げると、
「ヒースコート家当主代々の避難場所だよ」
パーシーはそう言って微笑した。
「避難場所?」
オウム返しに尋ねてみる。
「そうだよ、アンソニー君。何かに行き詰った時。現実から逃げたい時。当主が逃げ込んでリラックスする場所さ」
懐から鍵を取り出し、パーシーは唇を吊り上げた。
「ここは、本当は使用人は入ってはいけない場所なのだけれどね。君は僕が認めた人物だからね」
扉を開けて、中に足を踏み入れる。少し、埃の臭いがした。
家の中は椅子とテーブルが一つづつ置かれ、日の光に背表紙が焼けた古い書物が置いてあった。これは、ピーターも知らない場所なのだろう。
「掃除は不要だよ」
早速椅子に腰かけ、パーシーが言った。
「察しが良いですね」
「まぁね」
そう言う彼も、テーブルに積もった埃を払う。
「僕が当主になってからは余り足の踏み入れない場所だからね。父は良く行っていたようで、僕が初めてこの家を訪れた時は、全く埃臭くなかったのだよ——あぁ、テーブルに寄りかかって良いよ」
「成る程」
パーシーの言葉に従って、テーブルに腰を預けた。
「どうして、私をここへ?」
水車が回る。水を掬い、その下の小川へと水を落とす。
鎮まる事のない空間の中で、果たして己の主人は何を告白するのだろう。
「君の前のヴァレットは、オズワルドが幼い僕にあてがった者だった。しかし、君は違う」
パーシーは頬杖をつく。
まるで、これから己が戯言でも言うかのように。
「君は僕のヴァレットだ。僕が選び、望んだモノだ。判っているだろう?」
これは試されているのだろうか。己の、心理を。
「……パーシー様、お戯……」
アンソニーは、それ以上唇を動かす事が出来なかった。
「行こうか。またヒルダに怒られてしまう」
先程の事が偽りだったかのように、パーシーは顔を離すと、爽やかな笑みを浮かべ、アンソニーを見た。
「あ……はい!」
アンソニーが慌てて水車小屋の扉を開ける。未だに心が大きく揺さぶられている。
先程の刹那の時は何だったのだろう。己の身勝手なエゴイズムが、主人を変えてしまったのだろうか。
それとも、本当にパーシーは己を求めているのだろうか。
どちらにしろ、これは赦されない事だ。
「パーシー様」
これは、注意をしなければならないだろう。己に出来る、一番残酷なやり方だと言う事は知っている。しかし、これ以上の関係を、望んではならない。
今迄望んだものは、皆何処かへ行ってしまった。
「もう、これ以上踏み込まれた場合、私はこの仕事から別の仕事先に行くでしょう。あなたを、罪人にしたくはない」
「罪人、ね」
何処か他人事のようにパーシーは口ずさむ。
「僕には判らない。男と女を隔てる崖が。何故ソドムの罪は存在するのか」
そうして、空を仰ぐと、
「澄んだ空だね。世の中も、こんなに澄んでいれば良いのに」
と、言った。
「朝食を取ろうか。その後に、ヤードが来るだろう」
「判りました」
まだ、あの余韻に浸っていたい。しかしそれは、今ではない。
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