第21話 突然のこと

「今日も平穏に一日を終えられたな」

 手蝋を持ったオズワルドは言った。

「パーシー様のご友人が来られているが、毎年の事だ。皆、戸惑っていない」

「成る程」

 暗い廊下を歩きつつ、アンソニーは頷いた。彼は、ブラッドモア夫妻とは今回が二度目の邂逅だ。まだパーシーのヴァレットになったばかりだったと思う。去年の狩りシーズンの際に、妻のイライザに拙く給仕をしたくらいだ。彼女は美しい。こうして、改めて見ても、やはりそう思う。

「オズワルドさん」

 廊下を歩きながら、アンソニーは尋ねた。

「何だ?」

「この屋敷の使用人は殆どが、先祖代々の者が勤めているとお聞きしました。それは、あなたも同じですか?」

「そうだな」

 オズワルドが頷く。

「私は、この家の使用人同士の結婚で生まれた。もう、随分と昔の話だ。パーシー様のお祖父様と共に、草原を駆け回ったものだ」

 そう語る瞳は、何処か遠くの追憶を見ているようだった。

「ヒースコート家は、男子の出生率が多くてな。それに、大抵が息子を一人産んだだけで終わる。――恐らく、影の警視総監との兼ね合いなのだろうがね」

「成る程」

「パーシー様はご両親から愛され、可愛がられていた。なので、事故の件は、余程衝撃を受けられたのだろう。時折お心が、お身体に追いつかなくなる“発作”も、そこから来ているのだろうね」

「パーシー様は、結婚はせずに、30歳を過ぎたら孤児院から養子を貰うと仰っておりました。それは、ご存知でしたか」

「ーーえ?」

 そう言って、オズワルドは歩みを止めた。どうやら、初めて聞いた事柄のようだった。

「オズワルドさんは、パーシー様がご結婚を選ばれるとお思いですか?」

「いやーーだが、養子を貰うと言う事を初めて聞いたのだ」

「成る程」

 丁度部屋の前に着いたので、アンソニーは立ち止まった。


「それでは、オズワルドさん」

 鍵を開けながら、彼は言う。

「あぁ、お休み。アンソニー君。明日もパーシー様を頼む」

 オズワルドは、アンソニーが自室の扉を閉める迄、蝋燭の灯りを消す事はなかった。


 足音が遠ざかる。アンソニーは質素な寝台に向かい、その縁に腰掛けた。サイドテーブルの引出しから、スキットルを持ち出し中の蒸留酒を呷る。強いアルコールに、喉が焼けるようだ。

 このまま声が出なくなってしまえばいいのに。そんな事を思考する。無言で、只々主人の言う事を聞くだけの、犬のような存在に堕ちたい。


 しかし、パーシーはそれを許さない、いや、拒絶するだろう。話好きの主人だ。その前に、とても寂しがりと言う事を知っているヴァレットは、溜息を、一つ吐いた。


 兎に角、今日は眠ろう。


 そう思い、靴を脱いで寝台に横たわった。秋の涼しい空気が、部屋を統べる。枕に頭を預け、瞼を閉じた。眠りに落ちる前に見えたのは、パーシーの見せる、太陽のような笑顔だった。


 翌日は、パーシーは早々と起きて、古くからの友人のスチュワートと共に鹿を仕留めに出かけた。その間、残されたイライザ伯爵夫人は、半ば呆れながら、一人で朝食を楽しんでいた。偶には二人きりが良いと、アンソニーも置いてけぼりを食らっていた。

「ところで……あなた?」

 朝食に出されたパンケーキをナイフで切り、イライザは言った。

「何でしょうか?」

 ティーポットを持ったまま、アンソニーが首を傾げる。

「これで逢うのは二度目ね。ロンドンでの社交シーズンには、スチュアートは参加していなかったから」

 確かに、そう言われればそうだ。

「何故、伯爵である旦那様が、社交シーズンをご欠席に?」

 思わず、口に出していた。


「あの人を見れば判るでしょう? イーストエンドにある劇場での舞台に忙しかったのよ。脚本が出来てから、役者集め、そうして、レッスン、レッスン、レッスンの日々……」

 イライザは肩を竦め、

「それも私に付き合わされて……更に大ヒット作になった上に、今度は私がノベライズ化よ。社交シーズンなんだから、お茶会にでも参加しなさいと言っても、スチュアートは首を縦に振らなかった」

 と、彼女はナイフとフォークを置いた。パンケーキは、全て食べ終えてある。

「結局、愛されているのか、依存されているのか……時折判らなくなるわ」

 誰にでも話し慣れているのか、その口調は、怒りを感じない。ならば、彼女が求める言葉は限られてくる。言える事は、ただ一つだ。

「旦那様はきっと、奥様を愛しておりますよ」

「そうだったら良いわね」

 珈琲を口にして、イライザは呟いた。

「そう言えば……」

 不意に彼女は手を止めた。

「そう言えば、過去に一度だけ……大ヒット作だったのに私がノベライズしなかったものがあるわ」

「不思議ですね」

 アンソニーは話を合わせるように頷いた。

「それでも、私を突き離さないと言う事は、求められてはいるみたいね」


 そんな時だ。外が、何やら騒がしい。

 メイド達の悲鳴や、床を踏む音が近付いてくる。

「何かしら?」

 イライザがそう言った時、扉が勢い良く開かれた。そこには、茶の上着を赤く染めたパーシーと、後ろで慌てるスチュアートの姿があった。

「どうしたのですか?!」

 アンソニーが歩み寄る。


 すると、パーシーは軽く片手を上げた。


「アンソニー君。どうやら、僕は殺人犯になってしまったようだよ」


 アンソニーは、スチュアートへと視線を向ける。主人がこれ以上語る気配が無いからだ。

「僕だって良く判らない。ただ、鹿だと思って撃った獲物が、隣のジーグローヴ子爵家の三女、アンジェリカ様だったんだ。パーシーが駆けつけた時にはもう、血塗れで動かなくなっていた」

 ジークローヴ子爵……アンソニーは余り聞いた事のない名前だった。

「あぁ、君は余りジークローヴ子爵家の人間とは逢った事がなかったね。隣の領土だが、我々ーーヒースコート家とは仲が悪いのだ」

 血に塗れた上着のまま、パーシーは口ずさむ。

「それにしても、恐いね。僕はこれからどうなるのだろう?」

「汚名を晴らすんだ、パーシー。もしかしたら、向こうに負が有るかもしれない」

 スチュアートが、腰を抜かしかけたパーシーを支えた。

「どうかな……今回は己の事だから、少しばかり混乱している」

「大丈夫ですよ、パーシー様」

 血戯えた、震える主の冷たい手をとって、ヴァレットは顔を近付ける。

「私が、お守りします」

 そう言って、彼を抱き上げた。

「何処に行くのだ」

 スチュアートが手を伸ばす。

「取り敢えず、汚れてしまった服を着替えなければなりません。パーシー様の自室に向かいます。恐らくスコットランドヤードが訪れる迄時間があるでしょう。共に来られますか?」

「あなた、」

 と、イライザがスチュアートの肩に指を添えた。

「あぁ、イライザ。僕はどうすれば良いのだ。大切な友人を、殺人犯にしてしまうなんて」

 彼は未だに混乱している様子で、頭を抱えている。それに対してイライザは、側に控えていたエドワード少年に向かって、

「そこのあなた。珈琲を持ってきて下さる? この人を落ち着かせたいの」

「ぼ、僕ですか」

 少年は目を見開いている。恐らく、皿洗いばかりで、血を見るのも初めてかもしれない。

「エドワード君、ブラックモア伯爵を頼みます。私は、パーシー様を落ち着かせた後に、ヒルダさんに今後の事を聞いておきます」

「わ、判りました……」

 スカラリーは慌てて、珈琲をカップに注いでいた。それを横目に見ながら、アンソニーはパーシーを抱き上げたまま、食堂を出た。


「すまないね、アンソニー君」

 廊下に出ると、彼の首に手を回し、パーシーは呟いた。それには、何処か甘えを感じさせる。


 珍しい事だ。いつも澄ましている英国紳士とは、まるで別人のようだった。


 どちらかと言えば、愛に飢えた幼い子供のような。


「大丈夫ですか? パーシー様」

「……あぁ、もう大丈夫だよ」

 耳元に息がかかる。そう言いながらも、腕には力が込められていた。

 アンソニーは早足で主人の自室を目指す。パーシーも、余り他の使用人達に見せたくはない姿だろう。

 やがて、部屋へと辿り着くと、片手で鍵を開け、扉を開いて、足を踏み入れる。朝主人が出て行った儘の部屋は、開けられた窓から晩秋の匂いがした。

「本当に、大丈夫だよ、アンソニー君」

 パーシーが言った。

「痩せているとしても、僕だって男だ。重いだろう?」

「判りました」

 アンソニーはそう言って、彼を寝台の縁に座らせた。


 その時だ。


 パーシーの瞳が、きらりと光を帯びた。

「……成る程。僕は大いに嵌められたようだね」

「え?」

 主人の突然の言葉に、ヴァレットは目を見開いていた。

「アンジェリカの遺体を僕が揺すぶった時に、この上着に血が付着した。そこからスチュアートと共に1200ヤード程駆けて、屋敷まで戻って来た。そこで食堂に行って……それからは君もいただろう? 君が混乱する僕を抱き上げた。当然、君の仕着せにも僕の上着に付いた血が滲むと思うだろう。しかし、どうだい?」

 アンソニーは慌てて己の仕着せの上着に目をやった。そこには、赤い血の跡など何も染みてはいなかったのだ。

「……パーシー様」

「さて……」

 上着を脱いで、パーシーは口角を吊り上げる。

「この僕を貶めた犯人は誰かな?」

 怪人録に、切り裂きジャックの事件の前に綴られる事件の、幕が開いた。

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