第20話 スチュアート・ブラックモア伯爵

 パーシーはその間、仲の良い貴族である、スチュアート・ブラックモア伯爵夫妻と共に、広い領地で鹿狩りを楽しみ、夕食に出された鹿料理に舌鼓を打ったりをして過ごしていた。

 モーリスの考案したパンを沈ませたグラタン風のスープについては、パーシーは皆の予想通り気に入り、ブラックモア夫妻にも出された程だった。

「美味しいですわ、パーシー様」

 そう言ったのは、スチュアートの妻、イライザ・ブラックモアだった。

「それは良かったです。我が家のコックの自信作ですから」

 笑顔でパーシーは答える。猟のシーズンに入ってからの初めての客に、屋敷の中は落ち着いてはいなかったが、外見は皆、いつも通りの仕事をこなしていた。

「そう言えば、パーシー」

 と、スチュアートは言った。パーシー曰く、こだわりの肩ほどの髪の毛を、後ろで結っている、中々の好青年だ。

「何だい?」

 パーシーは首を軽く傾げた。

「何故、君の家の厨房は未だ男が占拠しているのだい? 今や女性が活躍する時分だ。少し、時代遅れに思われないかい?」

 するとパーシーは、

「我が家の厨房は、主人の僕が男である事と同じように、男が支配している。もし、僕が女主人……まぁ、ないだろうけれど妻を迎える時がきたら、もしかしたら変わる事もないとは言えない。ただ言えるのは、先祖が国王からヒースコートの名と爵位を賜った時から、厨房にいたのは、今のコックの先祖だったという事だけだよ」

「成る程!」

 スチュアートは声を弾ませた。

「変な事を言ってしまってすまない、パーシー。凄いロマンティックじゃないか! 先祖代々同じ屋敷でコックをしている。想像力が掻き立てられるよ、ねぇイライザ」

「そうね、あなた」

 さして興味無さげに、イライザは答える。

「僕がまずこの物語を舞台にする。ウエストエンドにも劇場街があるからね。そこでヒットしたら、君がその舞台に基づいた小説を描く。僕たちは大金持ちだ。ロマンじゃないか!」

「別に私達はお金に困ってはいませんわ。あなた」

 出されたグラタン風のスープを一口飲み、妻は夢想する夫に向かって冷ややかな言葉をかけた。

「そんなつれない事を言わないでお呉れよ」

 スチュアートは嘆く。

「君の為に書き下ろした新作だってまだ沢山あるのに」

「愛だけは、受け取っておくわ。私を過労死させないくらいのね」

 そんな夫婦間のやり取りを、無関心に見つめているパーシーの眼差しがあった。


「うらやましいとは、思わなかったのですか?」

 夜、寝巻を着せながら、アンソニーは改めて尋ねてみた。

「何がだい?」

 パーシーは首を傾げる。そうして、

「……あぁ! スチュアートの事か! 彼とは結婚前から仲が良かったからね。結婚して二年は経ったと思うけれど、彼があのように女性に夢中になる姿を見た事がなかった。恋をすれば、人は変わるものなのかな?」

 その言葉は、アンソニーの心に、砂のように滴った。

 愛する主人の幸せな姿は見てみたい。屋敷の皆の願いだろう。


 しかし、そうなった——ヒースコート邸に幸福な花嫁が迎え入れられた時、己の心はどうなるのか。


 取り敢えず今は、仕事に集中しよう。

「なぁ、アンソニー君」

 ボタンが胸の上程迄来た時、パーシーは言った。

「何でしょうか」

 淡々とした口調でアンソニーは答える。

「恋とは、何だろうね」

 あなたはなんて残酷な事を口走るのだろう。思わず手を止め、ヴァレットは主人と向き合った。

「恋をして、人を愛する、そうして、結婚する。僕には、それがとても遠い旅路のように見えるのだ。スチュアートだってその信者だった。イライザと言う、生まれつきの婚約者がいた以外ではね。やはり、僕の脳はそれを受け付けないようだね」

「……はぁ」

 アンソニーは溜息を吐いた。

「僕は結婚する気はないよ。三十になったら、孤児院から養子を迎えるつもりだ。頭の回転の良い子供が良いな。もし僕が、若くして死ぬ事になったら、“彼”が、次期影の警視総監になるだろう。それまでは、僕も手助けするよ」

「そうなのですね」

「血は繋がっていなくとも、その子供は僕の息子のようなものだ。アンソニー君。僕が死んだあかつきには、彼のヴァレットを勤めて貰いたい。そう考えているよ」

 着替えが終わったパーシーは、布団に潜り込んだ。

「それじゃあ、お休み」

「……お休みなさい」

 何処か思い詰めたような声色で、アンソニーは言葉を継いだ。


 今夜も、使用人専用の食堂に足を運ぼう。最近、アンソニーはそこで夕食を摂ってる。この屋敷の使用人達は、幸い、優しい者ばかりだ。きっと勇気づけて呉れるだろう。


 何を、勇気づけられる?


 アンソニーは足を止めた。

 確かに、それに明確な答えなど存在しない。この想いを打ち明ければ、きっと己から離れて行く者も少なからずいるだろう。

 気分転換に食堂へと足を運ぶのだ。それを心に踏まえて、彼は暗い廊下を再び歩き出した。


「お、待ってたぜ、アンソニー」

 丁度パンを口に放り込んだピーターが言った。

「また来て呉れたんですね、アンソニーさん」

 キャサリンも声を弾ませた。そうして、己の隣の椅子を引いて、

「たまには、お隣で食べませんか?」

 と、アンソニーを誘った。

「珍しいじゃないか、キャサリン。君が他人に心許すなんて」

「そんな事ないですよぉ」

 キャサリンは苦笑する。

「有難うございます」

 アンソニーは言って、腰掛けた。朝から夜まで働いたのだろう、気がついていないのだろう彼女の、朝の清掃時についたと思られる、頭に軽く積もった灰を手で落としてやると、キャサリンは小さく悲鳴を上げて、頬を赤く染めた。

「き、急に何ですか?!」

 慌てたように彼女は取り繕う。

「いえ、髪の毛に灰がついていましたので……」

 アンソニーが手に積もった灰を見せると、

「あ、あたしったら。……有難うございます」

 と、恥ずかしげに視線を反らした。


「やっぱり真面目だねぇ。アンソニー君」

 と、ジェイクは食べ終わった食卓に頬杖をついた。

「皆、判っていてあえて隠していたのに」

「酷いです!」

 若い娘は嘆く。

「それだけ、丁寧な清掃をしたという証ですよ」

 と、アンソニーは慰めるように彼女の頭を幾度か優しく撫でた。

「……有難う、ございます……」

 キャサリンは再び頬を染めてしまった。

「女殺しだぜ? アンソニー」

 ピーターが言った。


「そこ、食事が終わったら各自明日に備えて眠りに就くように」

 一番奥から声が聞こえる。オズワルドが、こちらを見ていた。

「はーい」

 少し不機嫌な声で、キャサリンは答えた。明日が憂鬱なのだろう。

 アンソニーと比べれば長いが、彼女も農園から屋敷のハウスメイドになって日が浅い。見習いのようなものだ。なので、午前中の仕事は先輩メイドから暖炉の清掃を押し付けられる事が多いと言う。

「明日も、頑張って下さいね」

 アンソニーは、そう言って食堂を出て行く栗毛色の髪をしたハウスメイドを見送った。


 辺りを見渡せば、残った者達は皆既に顔見知りになった者達ばかりだった。執事のオズワルドに、メイド達の手の届かない場所や、この屋敷の秘密を掃除する、清掃係のピーター。そうして、フットマンのジェイク。


 皆、それぞれ煙草を燻らせたり、未だに食事を口に運んだりと、自由に過ごしている。

 これは、明日のエドワード少年は大変だろう。アンソニーは不意にそう思った。

「所で、この食器誰が食堂まで持っていくんだ?」

 煙の向こう側でピーターが言った。


 すると、奥の席で影が揺らめき、

「僕が運びます」

 影の主のエドワードは答えた。

「うぉっ、びっくりした」

 ピーターが煙草を落としそうになる。

「まだ残ってたのかよ。全く、律儀なスカラリーだな」

「そう言って頂けると嬉しいです」

 エドワードが頭を掻いた。

「でも、そろそろ皆さんお休みになられるお時間ではないでしょうか?」

「ま、まぁ、確かに?」

 ジェイクは言い淀む。

「今日は解散しようか。なぁ、アンソニー君」

「え?」

 急に話を振られ、アンソニーは戸惑った声で答えた。

「そう……ですね」

 思わず眉を寄せてしまったヴァレットを気づかってか、オズワルドが立ち上がり、言った。

「そろそろ解散だ。埒があかん」

「はーい、大将」

 椅子を斜めに揺らして座っていたピーターが溜息を吐くと、煙草を手持ちの吸い殻入れへとねじ込んだ。

「お休み」

 そう言って、彼は食堂を後にした。


「我々も行こうか」

 ピーターが立ち去った後、再びオズワルドが声を上げた。

「判りました」

 ジェイクが腰を上げる。すかさず、エドワードが食器を重ね始めた。

「君は、どうするのですか?」

 熱心なスカラリーの姿を見て、アンソニーは尋ねた。

「これから、食堂に行って洗います。そうして、僕も自室で眠る予定です」

 大勢の食器を片付けながら、彼は言った。大変だな。アンソニーは思う。

「私も手伝いますよ」

 気が付けば、エドワードの仕事の手伝いをしている己がいた。

「えぇ、大丈夫です。……それに……」

 エドワードは口籠った。

「それに?」


「これは、僕の仕事です。僕は見習いだけれども、夢を、いや、誇りを持ってスカラリーを勤めています。僕に構わず、お休みください」

 どうやら、これは強がりから来るものではないようだ。アンソニーは、

「それでは、頑張って下さい」

 と、年下の少年の頭を優しく撫でた。

「はい! お互いに」

 その声を背中で聞きながら、アンソニーはオズワルドと共に廊下に出た。

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