第16話 使用人用の食堂

 食堂を出て、ベッドのある自室に向かう。九時を過ぎた屋敷の廊下は薄暗く、何かが潜んでいるようだ。

「ほら、あそこの窓に妖精が潜んでいるよ?」

 と、パーシーは廊下の窓に引かれたカーテンを指さす。

 アイルランドに住む者たちが神話や妖精を信じるように、パーシーもそんなモノを何処か信じている節がある。

 それは、幼い頃に両親から引き離させた哀しみが変化したものか。だからこそ、古くからいる屋敷の使用人達は、そんな彼の事をわが子を見つめるような眼差しで見守っているようだ。


 やがて、自室に到着すると、パーシーはアンソニーが扉を閉めるのを待ってから、服を脱ぎだした。寝巻に着替えさせろ。これは、貴族にとって当たり前の事だ。始めこそ驚いたが、直ぐに慣れてしまった。

 アンソニーは、手早く箪笥から寝巻を取り出すと、全裸になったパーシーの片腕から袖を通す。両手が終われば、後は前の釦のみだ。

「失礼します」

 と、向かい合って釦を止め始める。パーシーの息使いが髪の毛を掠める。思わずどきりとして、顔を背けていた。

「君は器用だね、アンソニー君」

 くすくすとパーシーの声が聞こえる。

「何がですか?」

 アンソニーが問うと、

「いえね、良く手の感覚だけで釦を付けられるなぁ、とね」

 その言葉に、彼は己の鼓動が上がるのが判った。今顔を上げれば、パーシーの顔は直ぐ近くにあるだろう。それを己は耐えられるのか。しかし、恐ろしく募るのは激しい羞恥心だ。


 己一人の行動で、主人を牢獄に繋ぐ訳にはいかない。

 罪だと言うことは判っている。ただ、己はその線引きを越えそうになる時がある。

 それを、制止しなければならない。果たして、己の中に巣食う獣は、それを許すのだろうか?


「……ソニー君、……アンソニー君」

 呼ばれた声に、はっ、と我に帰れば、丁度最後の釦を閉め終えた所だった。

「考え事かい? 僕で良ければ相談に乗るよ」

「い、いいえ。下らない事ですから」

 アンソニーは首を振った。

「判った。それじゃあ、僕は寝る事にするよ。お休み」

「お休みなさいませ」

 アンソニーが持ち上げた掛け布団の中に潜り込み、布団がかけられるのを感じると、パーシーは目を閉じた。


 直ぐに眠りはやってくる。パーシーの寝息が聞こえてくるのを確かめ、アンソニーは部屋を後にした。


「……ふう」

 額に流れた汗を袖で拭い、彼は廊下を歩き始めた。目指すのは、使用人用の食事部屋だ。


 彼は余り、そこで食事をした事がない。大抵は独り、出された料理を与えられた部屋で食べている。しかし、エドワード少年の事もあり、珍しく食事部屋に足が向いていた。


「お、珍しいな。アンソニー」

 扉を開けた時、聞こえたのはジェイクの声だった。

「君が、この部屋に来るなんて」

「気が向きまして、たまには、と」

 アンソニーは頭を掻いた。ヴァレットは従者の他に、影で使用人達を監視する役割も担っている。チクリ屋と、他の使用人達は少し嫌煙している節があった。

 彼は狭い使用人達用の食堂を見回す。肝心のエドワードは、奥の方で小さくなってパンを口にしていた。アンソニーは彼の隣に腰かけると、笑顔を向けた。


「やぁ、また逢いましたね」

 するとエドワードは驚いたように目を見開き、パンが喉に詰まったのか幾度かえずいていた。

 そうして、やっと喉に残るパンを水で流し込むと、その、子猫のような大きな瞳でアンソニーを見た。

「あなたは……」

「アンソニー・ブルーウッド。一年程前から、パーシー様のヴァレットをしています。私の後に入った使用人は、おそらくあなたかと思いまして」

「そうなんですね。このような場で恐縮ですが、よろしくお願いします」

「よろしく」

 狭い中で、少年と握手を交わす。そうして、

「今日はローストビーフもありますよ。モーリス様が、たまには屋敷の者にも、と大きな肉を使われたようなので」

 と、アンソニーの目前に差し出された料理に視線を向けた。それに誘われるように、彼も目をやる。

些か多いマッシュポテトに、ローストビーフが乗せられていた。流れた肉汁と血で赤く染まったマッシュポテトは、クリーミーな味の中に、胡椒のつんとした風味が鼻を刺す。

「ほら、パンもあるぜ」

 斜め向かいに座ったジェイクが言った。恐らく、パーシーを除けば、一番話しているのはこの男だろう。彼も、一年前には余り良い顔をしなかった。恐らく、同僚を取られたからだ。


 しかし、今は気さくに話しかけてくるようになった。


「有難うございます」

 アンソニーはそう言って、差し出されたバスケットから、パンを一つ取り出した。

「君からここに来るなんて珍しいからな。ついでに、パーシー様の所有する農地から送られた生乳から作った、俺特製のバターもあるぜ」

「ジェイクのバターは美味いぞ」

 と、彼の隣に座っていたピーターが言った。

「パーシー様は、一度だけしか食された事がないけどな」

 その言葉に、ジェイクは、

「ヒルダさんが認めて呉れないんだ。他の使用人が作ったものを食べられて食あたりでも起こされたら……とかね」

「実はな、食あたりを起こされた事があるんだ」

 そう言って口を開いたのは、ここにいるメンバーの中でも古参のコック長、モーリスだった。

「風邪と言えと言われていたが、新人が担当した、じゃが芋の皮むきで作ったマッシュポテトに根が入ってしまっていてな。一晩苦しませてしまった事がある」

「成る程」

 パンを口にし、アンソニーは相槌を打った。

「それから俺はヒルダさんに逆らえない」

「は、はぁ」

 一瞬見え隠れしたヒースコート邸の使用人事情に、新参者のヴァレットはひるんでしまった。それと共に、この事はパーシーには話さないで良い。そんな、秘密を共有し合う仲間になれた事が嬉しかった。


「それでは、頂きます」

 彼はそう言って、バターの入った瓶を受け取った。

 どうやら、生乳と塩をこの瓶に入れて振って作られたようだ。蓋を開けた途端、ミルクの穏やかな匂いがした。

 手渡されたスプーンで掬ってみれば、その香りは更に華やかなものとなり、付けたパンを彩った。美味そうだ。そう思った時には、既に口の中でとろけるようなバターの風味に心躍ろかせられていた。

 岩塩が薫り、それと共に遥かな牧場の風が吹く。アンソニーは母から聞かされていたが、牧場など訪れた事もない。刹那、最後己の手を握って息絶えた母親を思いだし、片目に涙が伝った。


「お、おい! 大丈夫か?!」

 慌てたのはジェイクだった。そうだ、己の作ったもので人一人が涙を流しているのだ。心は尋常ではない速さで動いているように見えた。

「すみません……少し母を思い出しまして……」

 何と思われようと構わない。己は嘘を吐くのが嫌いだ。そう思い、アンソニーは正直に答えていた。

「君は、お袋さんと二人で?」

 涙を拭ったタイミングを見計らって、ジェイクは尋ねた。

「まぁ、そうですね。しかし、バターを食べただけで母を思い出すなど、不甲斐ない者です」


「そんな事はないと思うぜ?」

 そう言ったのはピーターだった。

「男は誰だって、元は母に依存しているんだからな」

「そうですね」

 苦し紛れに、アンソニーは笑った。

「あんたが笑っていれば、神の身元でお袋さんも喜ぶはずだ」


「……え、アンソニーさんって、お母さん亡くしてるんですか?」

 ピーターの隣に座ったハウスメイドのキャサリンが話しかけてきた。彼女は気立ての良い娘だ。幾ばくか歳は離れているが、ハウスメイドの中でも、アンソニーに話しかけてくる数少ない使用人の一人だった。

「あたしったら、全然知らないで自分のお母さんの話をしてしまって……」

 キャサリンの両親はパーシーの持つ郊外の領土で、代々カーディナーとして働いている。彼女ものんびりと時の流れるこの土地で一生を終えるのかと思っていた時分、歳が近い事も手伝ってか、パーシーに気に入られ、屋敷附きのハウスメイドになったと言う。

 メイドの仕事は数あれど、それをてきぱきとこなす姿に、ハウスキーパーのヒルダがまだ早いが将来の跡継ぎにと考えていると噂されている。


「大丈夫ですよ、キャサリンさん。私の中では吹っ切れた問題です」

 アンソニーが言うと、

「バター食べただけで泣き出す男が、吹っ切れた問題だとよ」

 ピーターが肩を竦めた。

「ははっ、そうですね」

 アンソニーも苦笑する。

「本当に、不甲斐ない……」

「おいおい、食事につれない話を持ち込むな」

 モーリスが立ち上がった。

「そんな気持ちで食べられたら、食材が泣いてしまうだろう」

 確かにそうだ。アンソニーは背を正した。

「場を乱してしまい、申し訳ありません」

「いいんだよ、モーリスのおっちゃんがお堅いだけさ」

 ピーターは白い歯を見せた。

「貴様、俺を舐めているだろう」

 モーリスが言ったが、それ以上は続ける気はないらしい。二人とも、静かに己の食事に戻っていった。


 夕食を終え、アンソニーは与えられている自室に向かった。月光が、絨毯の上を統べる。余り広くもない部屋の中を月明かりを頼りに進み、着替えを済ませる。それから、靴を脱いで寝台に腰かけた。そうして、サイドテーブルに置いた蒸留酒を杯に入れ、飲み干す。


 込み上げた熱を、覚ます為だ。


 今日の自分は些か傲慢が過ぎた。それを咎めるように、強くもない酒をあおるのだ。

 酔いは直ぐに回り、そのまま寝台に倒れるように横たわった。目を閉じれば、そのまま眠りに落ちていった。

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