第14話 アンソニーの過去


 その一言に、アンソニーは心臓の音が高鳴った。それを気が付かれてはならない。頭の中で鳴り響く警鐘を聞き、震える盆を隠すように、背を向けた。

「行ってらっしゃい」

 手を振る主人のはしゃいだ声が投げ掛けられる。

「楽しみにしているよ!」

「はい」

 アンソニーは一礼し、扉を閉めた。

 静まり返った廊下は、気紛れなパーシーの一言に踊らされている自身を嗤うように空気がまとわりついてくる。それを振り払い、些か速足で、厨房へと向かった。


 そういえば、己はパーシーが秘密主義の事も手伝い、彼の事を他の使用人経緯くらいでしか知らない。一年もヴァレットを勤めていて、これは余りにも馬鹿げた事実だろう。

 言ってしまえば、ずっとフットマンをやっていた所為か、仕事をこなす事は出来るが、その屋敷の主人の極秘事項に触れないように生きてきた。それが、仕事だからだ。

 その悪い癖が、出てしまっていた。


 やがて厨房へと下りると、そろそろ夕食の準備に忙しくなる時刻だった。コック達が、鍋を片手に走り回っている。その中で、食器洗い担当のスカラリーに、アンソニーは食器を手渡した。

 それを見ていたモーリスは、

「良く間に合ったな。丁度そろそろ夕食の準備に取りかかる所だった」

「すみません、お手数をおかけします」

 アンソニーが答えると、

「パーシー様は喜んでいたか?」

 モーリスは言った。やはり気にしていたのか。アンソニーは思った。

「この屋敷のキュウリサンドは最高だと、喜ばれていましたよ」

「当たり前だ。色々な拘りが詰まった料理だからな」

 コック長は腕を組む。

「コック長、そろそろ仕切って下さい」

 後ろから声がする。この声は、マシューのものだ。

「あ、すみません」

 その声にアンソニーが謝ると、

「良い良い。気にするな」

 そう言って、モーリスは背中を向けた。それから、ふとこちらを振り返り、

「賭けには負けてしまったな。じゃあな」

 と、言い残して、厨房の奥へと消えていった。


 賭けとは、この屋敷に仕える使用人達の中で流行ったと言う、アンソニーがいつパーシヴァル様から、パーシー様になるか。そんな賭けの事だろう。

下らないものだ。


 後に聞いたところ、ジェイクの独り勝ちだったと言う。しかも、その日付まで言い当てたので、掛け金は給料の二倍分程の金になったと聞いた。


「まるで僕が低賃金で働かせているみたいじゃあないか」

 早速嗅ぎ付けたのか、それを知ったパーシーは頬を膨らませた。この屋敷は様々な職に限らず賃金が良い。それを、馬鹿にされたとでも思ったのだろう。

「まぁ、それ程君が、皆の注目を集めていたという事だね」

「はぁ」

 アンソニーは相槌を打った。

「さて、僕は、君と話がしたいと言ったね。座り給え」

 パーシーはテーブルの向かいを顎で指した。あまり座り慣れていないヴェルヴェット生地の椅子は、些か座りにくい。

 それから、彼は頬杖を突くと、静かに唇を開いた。


「まずは、君の出生についてだ」

「はぁ」

 アンソニーは頷く。それと同時に、己が如何に己について無知だったのかを、軽く恥じていた。

「私は日系三世です。祖父がニホンの生まれで、西洋留学に来た際、現地の娘──私の祖母に当たる下町の娘に恋をして、イギリスに帰化し、青樹から“ブルーウッド”と名乗り始めたのだそうです」

「成る程」

 パーシーが相槌を打った。

「それで、君は如何にしてアネット警部のフットマンに?」

「そうですね。祖父がイーストエンドに暮らし始め、アネット警部に拾って頂く迄、私達一家は貧しく暮らしていました。父は朝から晩迄食肉工場で働き、母は内職仕事で生計を立てていました。ある時、妹が栄養失調で私の腕の中で死んで逝きました。それと同じくして、父も過労で倒れ、この世を去りました。私は母と二人、貧しい暮らしを強いられ、母は夜鷹として街角に立ち、性病であっけなく死にました。一人残された私は、いっそ強盗にでも入ってやろうと、高級住宅街を歩き、金持ちの家を探しました。そうして強盗に入ったのが、アネット警部の自宅だったのです」

「実に面白い過去を持っているのだね!」

 パーシーは笑顔を見せた。何処が面白いのか。アンソニーは瞬きを繰り返した。それを見たパーシーは、

「いや、僕は時々言い方を間違える。大変だったのだね」

「いりませんよ、慰みの言葉など」

 貴族の夫人達に散々言われ続けた言葉だ。少しぶっきらぼうに、アンソニーは答えた。

 すると主人は、静かに手を伸ばし、ヴァレットの頬に添えた。ひんやりと冷たい熱が伝わる。それと共に、蒼を湛えたその双眸が、アンソニーを真っ直ぐに見ていた。

「君は富豪や貴族を恨んでいる。出逢った時、そんな目をしていた。僕はそれが気に入って、君をヴァレットに雇ったのだよ」

「あなたは、物好きだ」

 ヴァレットは言葉を吐き出した。

「あなたの出生については、清掃係のピーターから少し聞きしました。幼いながらにご両親を亡くされたとか」

 その言葉に、パーシーは一瞬俯いた。そうして、

「まぁ、そうなるね」

 彼は頷いた。

「何故、自室にはお母様の肖像画だけを?」

 アンソニーは気になっていた事を言葉に出していた。それに対して、パーシーは、

「……僕は、父が余り好きではなかった。それだけだよ」

 と、子供めいた事を口にした。

「はぁ」

 アンソニーは小さく息を吐く。


 もしかしたら、彼の心は未だに両親が死んだ幼い頃に取り残されているのかもしれない。使用人達が、彼に対して如何に過保護なのか、良く判った気がした。

 いつ彼の心の均等は崩れるか。そんな心配をしているのだ。


 パーシーはただの侯爵ではない。“影の警視総監”としての責務も担っている。そうして、未だ独り身の為、子供——後継者がいない。

「パーシー様」

 アンソニーは言った。

「奥様を、お迎えする事は考えてはいないのですか?」

 するとパーシーは、


「君はたまに、凄く意地悪な質問をするね」


 と、頭を掻いた。

「答えを求めている訳ではありません。ただ単に、疑問に思いましたので」

「そうか。そうだね……」

 パーシーは暫く悩んだ末に、顔を上げた。

「僕としては、結婚と言う概念に理想を感じ得ないからかね。他人のものになる、その感覚が理解できないのだ」

「そうなのですね……」

 アンソニーは頷いた。

「だが……」

 パーシーは一度椅子に座り直し、言った。

「君は僕が選んだのだ。それはとても名誉ある事だよ」

 まるで愛の囁きのようだ。


 しかし、彼の愛は何処か遠いところに置き去りにされている。再び目が合い、己を映している瞳も、何処か遠くの誰かを探している。そんな風に思えるのだ。

「パーシー様」

 と、ヴァレットは話を誤魔化すかのように主人の名を呼んだ。

「何だい?」

「もうそろそろ、夕食の時間です」

「もうそんな時間かい?」

 パーシーは懐中時計を取り出し、開いた。午後八時前。夕食には、丁度良い時間だ。

「本当だ。食堂に向かおうか」

 彼は立ち上がる。そうして、

「有意義な時間だったよ。アンソニー君。僕は君に更に興味を持った。偶にはまた、話して呉れ給え」

 先に席を立ったアンソニーに向かって言った。

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