第12話 20年前の事件

「成る程ねぇ」

 文章を読み終え、パーシーはため息を吐いた。

「同一人物なのでしょうか?」

 アンソニーは尋ねる。

「今回の事件との?」

「はい」

「それは、どうかな。しかし──」

 と、パーシーは脚を組んだ。

「今回の事件に、この”切り裂きジャック”が関わっているかも知れないと言うのは、確かなのかもしれないね。一般人には、号外は出ても、怪文書に書かれていたサイン迄は晒していない。知っているのは、警察と、その当事者だけだ」

「そうなのですね」

 アンソニーは頷いた。

「まだ僕が小さな頃の話だ。父も健在で、影の警視総監として、また、この書物への記録係として生きていた頃だよ」

「パーシー様は、どのような経緯でこの事件を思い出されたのですか?」

 ヴァレットは問うた。するとその主は目を輝かせ、

「よくぞ聞いて呉れたね、アンソニー君! 実はこの屋敷の誰も僕の影なる努力を知らないのだ!」

 語るその表情は、子供のようだ。

「僕が一度読んだものを永続的に記憶できる事は知っているだろう? それで、父から物心ついた頃にこの怪人録を読むように言われたのだよ。先祖の書いた文字の中には達筆の者もいてね。その解読から始めたのだ。幼い子供にだよ? 酷いとは思わないかい?」

「はぁ」

 アンソニーは曖昧に、返事をため息混じりに頷いた。呆れた訳ではない。主人からの愚痴に、驚いているだけだった。

 パーシーは普段、その様な姿は微塵も見せず、ただ気紛れなダンディズムの中で生きている。

 しかし時折見せる、この子供のような様子に、思わず見入ってしまった。


 やはり、己が彼を護らなくてはならない。

 そう、思ってしまう程に。


「兎に角、二十年も前の事件だ。ケースリー君でさえ、新米の警察官だった頃だろう。迷宮入りした事件を調べようと思わないと、中々辿り着けないものだよ」

 パーシーは幾度か瞬きを繰り返した。

「さて、今回の切り裂きジャックは、あの美しい黒髪のレディだろう。彼女に付き添っていた男ではない。恐らくそのレディの家族に、今回の事件の当事者がいる事迄は分かった。後は本当に、ヤードの努力次第だね」

 書物の閉じられる音が高い天井に響く。

「気が済んだよ。自室に行こう」

 椅子から立ち上がり、パーシーは言った。そうして本を抱え、本棚へと向かう。

「私が戻します」

 と、アンソニーは言って、本を受け取った。

「判るかい?」

「丁度本が斜めになっている箇所でしょう。判りますよ」

 そう言って、彼は梯子に足をかけた。本の重みか、きしりと梯子が鳴く。中々古い梯子だ、踏み抜いてしまわないか不安になった。

 アンソニーは覚悟を決め、素早く梯子を上り、目的の場所に本を返した。

「有難う、アンソニー君ー!」

 下からパーシーが呼んでいる。アンソニーは幾度か頷くと、急いで梯子を下りていった。

「君は僕よりも背が高いからね。恰幅とかの関係ではなくて、骨とかの重みも違う」

「私も、もういい年ですよ」

 と、アンソニーは苦笑する。

「三十路は未だ未だ若い内に入るよ」

 慰めるような声がかけられた。


 パーシーは確か二十代前半だ。アンソニーは三十を過ぎている。この、少し二人を隔てる年の差は、どのような事を意味するのだろう。


 今は、考えたくはなかった。


 やがて自室に着くと、パーシーはいつもの揺り椅子に腰かけた。そのまま背に背中を預けると、人の重みで、軽く軋む音がする。

「また、君の入れて呉れた紅茶が飲みたいよ」

 と、今朝読んでいた新聞を再び開きながら、パーシーは言った。時刻は丁度三時を指している。

「スコーンなどはいかがですか?」

 アンソニーは尋ねる。

「スコーンね……」

 パーシーは暫く悩んでから、

「あまりモーリスに面倒をかけたくはないな。そろそろ夕食の支度に入るはずだ。紅茶だけで良いよ」

「判りました」

 アンソニーは頭を下げ、既に新聞記事を読み始めた主から背を向けた。

 どちらにしても、紅茶を淹れる湯は厨房で沸かすのだ。最も、ヒースコート邸の厨房は広い。何処かしらのコンロを束の間借りれば、十分だろう。

 コック長のモーリスは訝し気に見てくるだろうが、"パーシーの為"で、案外全てが解決する。


 それ程、この屋敷の若い主は使用人達に好かれているのだ。


 ——それは、代々だよ。かつて勤めていた使用人の子孫達が、殆どなのだから。



 そんな考え事を思い出しつつ厨房へ向かう途中、出逢い頭にモップを手にした使用人とぶつかりそうになった。

「すみません、」

 アンソニーがとっさに謝罪すると、

「少しびっくりしただけだ。気にする事はねぇよ」

 との言葉が返ってきた。

「あんた、一年位前からここに勤めているよな。何度か見た覚えがある。まぁ、パーシー様と一緒だったから、中々声がかけ辛くてな」

 モップを壁に寄りかからせて、水の入ったバケツを床に置き、男は手を差し出した。

「ピーター・カークマンだ。パーシー様の両親が生きている頃から働いている。よろしく」

「アンソニー・ブルーウッドです。よろしくお願いします」

 二人は握手を交わす。そんな中で、アンソニーにとってふとした疑問が湧いた。

 今まで考えていなかったが、パーシーの両親とはどのような人物なのだろう。彼の部屋に飾ってある母の肖像は、至極美しく描かれている。

 己の知らない主人の過去を知るピーターに、アンソニーは少し嫉妬しているように感じた。


「パーシー様のご両親は、どういった方——」

「あんたの出生は——」

 二人の問いかけが重なった。

「すみません、私の方は下らない事だ」

 と、アンソニーが話を譲ると、ピーターは、

「良いのかい? 聞いちまって」

 などと首を傾げてくる。

「はい、大丈夫です」

 アンソニーは答えた。ピーターは束の間申し訳なさそうにしていたが、やがて、

「あんたの出生に興味が湧いた。その肌や瞳、東洋人だろう? それに、突然ウチに来たから、詳しい話を聞きたかったのさ」

 と、潔く問いを吐き出した。アンソニーはその手の質問には慣れていたので、笑みを浮かべ、

「母方の祖父が日本人で、青樹五郎と言う名前でした。それで、イギリス人と結婚して、イギリスに帰化するにあたって、苗字を単純に英語の発音にしたのが始まりですね。パーシー様とは、以前フットマンをしていたアネット警部夫人に付いて行ったサロンで知り合いました。そこで、半ば強引にヴァレットの職を任されたと言うか……」

「成る程」

 清掃係は、己の顎に指を這わせた。

「パーシー様にシノワズリの趣味が芽生えたのかと思っていたら、そう言う事か。単純に、あんたを気に入ったんだろうな」

 良かったじゃないか、と、ピーターは笑った。

「じゃあ次は、あんたの番だ」

 ピーターから突然話を振られて、アンソニーは思わず姿勢を正していた。


「あ、はい。パーシー様の年齢から考えれば、ご両親が生きていたとしてもおかしくありません。何か、あったのかと」

 すると、ピーターはおもむろにアンソニーのネクタイを掴んで、耳元で囁いた。

「余り大げさにゃあ言わないって、約束できるか?」

「はい」

 突然の事で驚きながらも、アンソニーは答えた。

「旅行先で、事故に遭っちまってな。幼いからと家に残されていたパーシー様だけが助かったんだ。俺は今でもそう思うぜ? ヤードに恨みのある誰かが当時の"影の警視総監"を殺っちまったんじゃないかってな。それはパーシー様も同じようで、二十年前の犯人を探している節がある」

「そうなんですか……」

 パーシーの言っていた事は本当だったのだ。それに、ヴァレットは言い淀む事しか出来なかった。そんな彼の態度にピーターは、

「何だかしらけちまったな。申し訳ない。俺もそろそろ仕事に戻るぜ。じゃあな、アンソニー!」

 刹那彼の肩を抱いて、去って行った。

 ピーターが去った廊下で、一人立ちすくみ、アンソニーは暫く呆けていた。突然己を襲った情報量に、耐えられないという風に。幼くして両親を亡くすというのは、どのような気持ちなのだろう。


 まさか、己の死を判っていて、パーシーの父親は彼に怪人録を譲ったのだろうか。彼の部屋には、母親の肖像画はあるが、父親のものは、猟銃しかない。一番ないのは、家族そろってのものだ。その事実を覆い隠すように、この屋敷の使用人達は彼の事を己の息子、あるいは兄弟のように扱っている。まだまだ、この屋敷には秘密がありそうだ。


「えらい所に就職してしまったな……」

 アンソニーはひとりごちる。そうして、紅茶の事を思い出し、厨房へと急いだ。

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