第11話 影の警視総監
昼食を終えると、パーシーは書庫へ行くのだと言い出した。
「何か調べものでも?」
アンソニーが問うと、
「いえね、”切り裂きジャック”……聞いた事がある名前でね。過去にそんな事件があったかどうか、探してみようと思ってね」
ヒルダから借りた鍵を手に、主人は口角を引き上げる。
これは、事件について酷く興味を惹かれている証拠だ。長く続く侯爵家の書庫は、縦に広く、横に細い。天窓の天井には、円を描くように本が棚に並んで納められている。梯子と、少しばかりの勘を頼りに、目的の本を探すのだ。
「いやぁ、暫く入っていなかったけれど、埃にまみれていない。この家の清掃係は優秀だね」
辺りを見回して、パーシーは言った。ヴァレットは常に主人の傍にいることが仕事だ。余り清掃係の者達と顔を合わせる事がない。
ただ、毎日のようにモップを片手に、屋敷の中を駆ける壮年の男の背中を見かけただけだ。パーシーは、この家の皆に愛されている。愛するものの日々の暮らしのほんの少しでも手伝える事が、彼らの喜びに繋がるのだろう。
「手伝って呉れ給えよ、アンソニー君」
梯子に手をかけ、パーシーは言った。一体何を手伝えば良いのか。アンソニーは困り、言葉を紡いだ。
「私は、何をすれば?」
鼻唄混じりに本の背表紙をなぞりながら、パーシーは歌うように言った。
「実はね、アンソニー君。ヒースコート家の屋敷には過去の事件の全てが納められているのさ。知らなかっただろう?」
それは何故だろう。アンソニーは疑問に思った。
「不思議そうな顔をしているね。まぁ、追々話す予定だったから、今話そうか」
と、パーシーは上りかけた梯子から下りて、真ん中に置かれたテーブルへとアンソニーを導いた。
「遠慮なく座って呉れ給え」
いつもは己の役目の筈の、椅子の背を引かれて、そこに座らされる。アンソニーが座った事を確かめると、パーシーはその隣に腰を下ろし、頬杖を突いた。
「まず、何故只の一貴族である僕が簡単に事件現場に入る事が出来るのか。不思議に思った事はないかい?」
「はぁ」
アンソニーは曖昧に頷く。確かに、一年程この青年のヴァレットをしているが、どのような事件でも事件現場に何の躊躇いもなく彼は足を踏み入れる。
主に、凄惨な殺人事件ならば尚更だ。
ジャスパー巡査を始め、ケースリー巡査部長も嫌々と言いながらも、パーシーを現場に通す。貴族に逆らえないのだろう、そのくらいに思っていたが、考えてみれば、不思議な事だ。
「君はここに来る前はアネット警部のフットマンをしていたのだろう? 耳にした事はないかい? “影の警視総監”がいると」
「……え!?」
アンソニーは思わず声を上げていた。聞いた事はあった。確か、ボウ・ストリート巡察隊から組織され、スコットランドヤードが出来た頃。未だロンドンに秩序も何もなく、荒れていたと言う。
そんな者達に明け暮れる巡察隊を仕切っていた人物がいた。その人物は決して表に出ず、判断を下すのみの存在だったと言う。そうして、スコットランドヤードが大きくなると、更にその影は水面下に広がり、やがて”影の警視総監”として、スコットランドヤードの事件に関わるようになった──。
「まさか……」
驚くばかりのヴァレットに、追い討ちをかけるかのように主は口角を引き上げた。
「僕──いや、我が一族が、代々その影の警視総監なのだ」
アンソニーは思わず黙してしまった。だから、警部夫人は彼に事件の推理を頼んでいたのか。疑問に思っていた事が徐々に明らかになる。まるで、幾重にも重なった糸が解けるかのように。
「驚いているようだね、アンソニー君。いつもの君らしくないじゃあないか」
と、パーシーは腕を組んだ。
「僕としては、表情を変えないヴァレットの、意外な一面を見られて嬉しいけどね」
その言葉に、アンソニーは己の顔が赤らんでいる事を知った。パーシーは楽しげに、片手でその頬に手を伸ばす。ひんやりとした主人の手は、何処か心地好い。やがてそれは離され、パーシーは立ち上がった。
「さて、探すよ。確か……20年くらい前に”切り裂きジャック”を名乗った者からの怪文書がヤードに届いたと記憶している。その後に、イーストエンドで滅多刺しにされた若い女性が見つかったのではなかったかな? 自信がないから、調べるのだ」
この中からだろうか。アンソニーは青ざめた。まるで、砂の中なら砂金を探すようなものだ。
「困っているだろう、アンソニー君。心配無用だよ、ここの本は年代別に並べられている。君はこの棚を探し給え。僕はその上を探すから」
パーシーは言う。年代別と言っても、小さな詐欺事件から、人でなしの行ったような犯行の殺人事件迄、様々な事件に彩られている。やはり、二人では無理ではないだろうか。
そんな事を考えながら、適当な本を選び、手に取った。
表紙を開き、まず驚いたのは、全てが手書きで書かれていると言う事だ。警察に眠る書類ではない、そのもっと詳しく事件を掘り下げた、独自の目線で描かれているのだ。
そう言えば、パーシーが本を書いていた事を思い出す。あの時は日記なのだと誤魔化されたが、確かロンドン中を巻き込んだ大規模な事件の後だった。
これが、ヒースコート家当主の役目の一つなのだろう。
「あったよ、アンソニー君」
上から声が聞こえる。パーシーは重たげな本を片手に、軽やかに梯子を下りて来た。そうして、アンソニーの手の届く所まで来ると、
「この本だよ。一寸持っていて呉れ給え」
と、本を差し出した。
「あ、はい!」
パーシーは平然とした顔をしているが、その手は本の重みに震えている。慌てて、アンソニーはそれを受け取った。ずっしりとした重みが手に押さえつけられる。
「テーブルに行こう──そうそう、そこに置いて」
アンソニーが本をテーブルへと運ぶと、先に座ったパーシーが言った。
表紙には何も書かれていなく、ただ背表紙に、”怪人録1860年Ⅲ”とだけ書かれていた。
「怪人録?」
アンソニーは首を傾げる。
「犯人の事さ。言っただろう? 1796年から、スコットランド——取り分けロンドン中で起きた事件を記録している。僕の両親の殺害事件も、勿論幼い頃僕が記入した。僕の初めての仕事だった。迷宮入りだけれどね……あぁ、これは僕の戯言だから、余り気にしないで呉れ給えよ」
頁を捲りながら、パーシーは口ずさむ。
「切り裂きジャック──ほら、あったよ」
そう言って、パーシーは本の一頁を指差した。一瞬見た次の頁の文字は、執筆が少し幼くなっていた。
切り裂きジャック事件迄が、パーシーの父親の仕事だと言う事だ。
1867年。夏に差し掛かる時分、スコットランドヤード宛に、一通の怪文書が送られてきた。メッセージはこうだ。
無能なるヤードの諸君。私はこの機を待っていた。大降りのナイフが手に入った。これで、一人のレディを切り刻もうと思う。彼女には何の恨みもないが、私の人を殺してみたいと言う欲求が、心を支配する限りは、犯行を行うだろう。
私を捕まえる? 面倒事は御免だよ。全ての処理が終わった後、私はパリにいるのだから。
切り裂きジャック
何の情報もなく、只の子供の遊びだろう。スコットランドヤードはそう考えていた。
しかし、事件は起きてしまった。
イーストエンドのホワイトチャペル地区で、刃物で滅多刺しにされた夜鷹の死体が見つかったのだ。被害者の名前はニコール・グランド。年齢は45歳という、ウエストエンドの娼館からとうが立って落ちぶれた夜鷹だった。
まず、犯人は彼女の頸動脈を切って、絶命した事を確かめてから犯行に及んだようだ。恐らく、悲鳴を聞かれない為に。
現場には犯人のものとされる足跡が残されており、それはあるアパルトマンへと続いていた。スコットランドヤードは導かれるように、急いでその一室に向かったが、そこはもうもぬけの殻だった。黒く染まった上着やズボン。靴は脱ぎ捨てられていて、代わりに、机の上に血の文字で、”
その後、犯人が逃げたとされる部屋は、ニコールが借りていた部屋だった事が判った。
果たして、本当に切り裂きジャックはフランスへと逃げたのか。そもそも、あの怪文書は本当の殺人予告だったのか。
真実は、深い霧の中に消えてしまった。
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