第10話 切り裂きジャック

「ところで、今日はケースリー巡査部長はいないのかな?」

 と、パーシーは辺りを見回した。

「いますよ、パーシヴァル侯」

 人混みから、ケースリー巡査部長が顔を出す。少し、精神的にやつれたように思える。パーシーはすかさず、

「姿の見えない犯人に翻弄されているようだね」

 と、皮肉を込めて言った。

「僕がこの前に言ったレディは見つかったのかい?」

「あれくらいの情報で見つかる訳がないでしょう。67インチの女など、この街にはごろごろと住んでいるのですから」

「僕は”男連れ”とも言った覚えがあるよ? それに黒髪とも。それでも見付からないと言う訳か」

 すると、ケースリー巡査部長は呆れたように肩を竦め、

「あなたはこのイーストエンドを知らなさすぎる。今やユダヤ人や他国からの亡命者やらがひしめく街の現状を。家を追い出され、街角で死んでいる者が多いと言う事を」

「成る程」

 パーシーは暫く悩み、

「酷い事を言った。すまないね」

 そう、謝罪した。


 慌てたのはスコットランドヤードの方だった。大貴族に謝罪を要求するような発言をしてしまった。もしパーシーが機嫌を損ねれば、臭い飯を食べる事になるのだ。

「こちらこそ、すみません」

 頭に乗せた帽子を取り、ケースリー巡査部長はこうべを垂れた。その態度に、パーシーは何も判っていないようで、

「どうかしたのかい?」

 首を傾げた。

 どうやら、機嫌を損ねてはいないようだ。


「帰るよ、アンソニー君」

 パーシーは言葉を継いだ。と、返しかけた踵を戻し、

「そう言えば、ヤード宛に手紙が送られてきたと聞いているけれど、犯人はなんと名乗ったのだい?」


 その問いかけに、ケースリー巡査部長は覚悟を決めたように、答えた。

切り裂きジャックジャック・ザ・リパー、そう、書かれておりました」

「──そうか。有難う。さて、本当に帰るよ」

 アンソニーの腰に手を回し、パーシーは言った。肩を抱くのは流石に大変なのだろう。主人よりも2.7インチ程背の高いヴァレットは、そんな事考えた。


 馬車の待つ、ホワイトチャペルの入口迄、結構な距離がある。幸い、男達は仕事に行き、女達は夜の疲れか深い眠りに就いている。

 両親に見捨てられた孤児達すらも、季節外れの暑さに日陰に隠れて外の様子を伺っているようだった。

「本当に眩しいな、アンソニー君」

 手で日陰を作りながら、パーシーは言った。眩しいばかりではない。暑い事も確かだ。

「馬車に乗ったら、このコートは脱いでしまおう」

 この国の貴族達は、己のファッションに拘りが強く、ついでに海を隔てた隣国、フランスともそのセンスを競っている。真夏でもインバネスコートを来て出かける者もいる。パーシーもその一人だが、馬車の中で脱ぐだけ良いのだ。ついこの間、老紳士が馬車の中で死んでいる所を発見されたばかりだ。熱中症、そう診断されたとかなんとか、新聞に載っていた。


「只の熱中症だろう」

 そう言って揺り椅子を揺らしたのはパーシーだった。

「でも、泥酔状態だったと言うから、もしかしたら殺人の可能性もある……」

 彼は疑り深く思考した。

「まぁ、ヤードの皆が来たら動こうか」

 そう言って、彼はテーブルの上に新聞を投げ出した。まるで、遊んでいた玩具に、飽きたかのように。


 結局、検死から只の熱中症と言う事が判り、パーシーが首を突っ込む迄はいかなかったのだが。

「つまらないな。僕の暇は増えるばかりだ」

 ビスキュイを口にしながら、パーシーはぼやく。

「呼ばれなくて良いのです。それだけ、この国が平和だと言う事です」

「そうだねぇ」

 パーシーはつまらなそうに相槌を打った。

 事件がないとつまらないとぼやいたのは、パーシーを入れて二人目だ。一人目は初めてフットマンとして支えたアネット警部で、スコットランドヤードの正義が新聞に全く書かれていないと、アンソニーに靴を磨かせながらそんな事を言っていた。

 アンソニーは、肉親の教育からきたものか、昔から平和主義者だ。なので、何故彼らがそんなにも事件に関わろうとするのか。未だに理解出来ないし、したいとも思わない。只の貴族や警察の気紛れ、そう思ってきた。


 目的の馬車の前に来ると、パーシーは御者に声をかけた。

「孤児達は寄ってきたのかい?」

「ビスキュイを、美味そうに食べられていましたよ」

 普段無口な御者は答える。どうやら、パーシヴァル侯爵の、気紛れの人助けは成功したようだった。彼は満足げに馬車に乗り込むと、アンソニーを前に座らせ、己はその向かい合わせに腰掛けた。

「暑いね」

 そう言いながら、パーシーは分厚いコートを脱いだ。シャツと、その上に着るヴェスト姿になる。そうしてシャツの釦を二つ程外し、手の平で扇ぎ風を呼んだ。

 シャツの間から垣間見える細い鎖骨に、アンソニーは軽く目眩を覚えた。しかしそれは直ぐに、ヴァレットの仕事の方が勝っていた。

「上着を畳みます」

「あぁ、有難う。──おっと、昼が過ぎてしまった。ヒルダに怒られてしまう」

 アンソニーの顔を見ないまま、上着を渡し、懐中時計を開いてパーシーは言った。今日は長い距離を徒歩で進んだのだ。時間が過ぎていても仕方がない。


 やがて、馬車はヒースコート邸に止められる。アンソニーが先に降り、パーシーがその手を取った。

 階段を踏む重みが、軽く手の平を統べる。それは直ぐにステッキに取って変わられ、何処か物悲しい気分がした。


「まぁ、パーシー様。今日は長いお出かけでございましたね」

 現れたハウスキーパーはその様な皮肉を口にする。

「コック長が作るタイミングを迷っていましたわ」

「すまないね、ヒルダ。直ぐに食事は摂れるのかい?」

 人を待たせてしまったのは己だ。罪人は素直に謝罪した。

「謝られる程ではありませんよ。ただ、お食事が冷めてしまってはパーシー様も悲しまれるでしょう?」

「そう言って温かいパンが出てくるのが我が家だ」

 食堂に向かいつつ、パーシーは言った。

「ほら、お出で。アンソニー君」

「あ、はい!」

「君がサーブして呉れると料理が喜んでいるようだ」

 椅子の背凭れを持って引いたアンソニーに従って、椅子に座り、パーシーは言葉を紡ぐ。

 それは──。


 それは、今迄のヴァレット達とも交わしたやり取りなのですか?


 その問いかけは、今したくはなかった。いや、永久的にしないだろう。言うとするならば、彼が神の身元に旅立つ前。または、己が同じように一生を終える瞬間。その時は、自分勝手に尋ねてみよう。

 間も無くコックが料理を運んでくる。簡単な説明を受け、それを受け取り、アンソニーはパーシーの座る目前に置いた。

「トマトとズッキーニと、蟹の身のテリーヌになります」

 蓋を開け、アンソニーは説明した。パーシーはナイフとフォークを手に、料理に手を伸ばす。丁寧に切られた切り口には、まるで水槽の中のように透き通って見えた。

「うん、美味しいね。後程で良いから、コック長に伝えておいて呉れ給え」

「畏まりました」

 と、ヴァレットは頭を下げた。コックが慌てて篭を抱えてやってくる。対応すれば、焼き立てのロールパンがそこには入っていた。

 そう言えば、いつも前菜と共に出される筈だったパンがなかった。パーシーは、パンに何かを乗せて食べるのが好きなのだ。少し物足りないような表情を見せたのは、このパンが原因なのだろう。

「お待たせ致しました」

 と、アンソニーは篭を食卓に置いた。パンを見たパーシーは嬉しそうに、

「そうだよ、僕はパンが欲しかったのだ」

 そう言って笑った。

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