第9話 重なる殺人事件

 アンソニーの感じていた不安は、それから十日ほど経った後、実際に起きてしまった。


「またホワイトチャペルで殺人があったようだよ」

 朝刊を読みながら、パーシーは言った。

「今度は真夜中に起きた様子だから、朝刊に載ったようだね」

 彼は紅茶を口にする。

「それに──今回は少々厄介だ。死人が二人も出ている」

「二人ですか」

 空になったティーカップに再び紅茶を注ぎ入れ、アンソニーは言葉を継いだ。

「やはり、君の勘は当たってしまったようだね」

 パーシーは新聞を捲る。

「流石に”凄惨な殺害方法”としか書いていないね。ヤードも自粛しているようだ。良し、現場に行こう。興味がそそられるよ」


 パーシーの屋敷から出発した馬車は、三度イーストエンドの入り口に止まる。

「また馬車を守っていて呉れ」

 パーシーは御者に向かって言った。

「判りました」

「あぁ、そうだ」

 と、彼は懐から幾つかの紙袋を取り出し、

「甘いビスキュイだ。孤児達が来たら与え給え。なに、人助けのようなものだよ」

 そう言って、御者に手渡した。

「はい、パーシー様」

 普段無口な御者は、簡単に答えるのみだった。


「さて、僕達も行こうか。まずは先に殺されたと言うレディの元へ」

 パーシーは歩き出す。アンソニーは慌てて、彼の後を追った。

 やがて、ホワイトチャペルのバーナー・ストリートの外れ、タットフィールズに至る。

「新聞によると、彼女の名前はエリザベス・ストライド。発見はスコットランドヤードの巡査らしい。やはり、とうが立った夜鷹のようだ」

 道すがら、パーシーは言う。彼の頭の中では、読んだものは全て記憶しているのだ。逆に、直接言われた言葉は、余り覚えている事がない様子だが。

 もう既に鑑識の仕事は終わり、死体が担架に乗せられていた。流された血痕も、既に黒く染まっている。


「ジャスパー君はいないのかな?」

 パーシーはひとりごちる。どうやら、馴染みの巡査達は第二の事件現場に向かっているようだ。

「失礼するよ、死体が見たい」

 白い布にくるまれた死体を運ぼうとしていた巡査達に言った。

「パーシヴァル侯……」

 ケースリー巡査部長から、散々言われているのか、彼らは困ったように顔を見合わせた。その隙を縫って、パーシーは杖でその布を取り去った。

「成る程。今回はそんなに傷つけられてはいないようだね」

「頸動脈を二回切り裂かれています」

 諦めたように、巡査の一人は言った。

「深いもので、約6インチの切り傷です」

「犯人はそれしか行わなかったのかい?」

「それが──犯行を見付けられたようで、急いで逃げ去った跡があります。珍しく、血に塗れた姿で」

「成る程」

 パーシーは幾度か頷いた。


「これは本当に、例の切り裂き魔の仕業なのかい?」

「それが──」

 巡査は言い淀む。

「スコットランドヤード宛に、犯人からと見られる手紙が送られてきまして……」

「どんな内容だい?」

「”今宵は二人のレディの血が流れるだろう”。そう、書かれていまして、恐らく被害者も切り刻むつもりだったのでしょう」

「ほう、」

 と、彼は振り返り、

「次の現場に行こうか。アンソニー君」

 そう言った。

「は、はぁ」

 踵を返した主人に、ヴァレットは呆れつつ、その背中を追った。


 第二の現場は、シティのマイター・スクエアらしい。

「かなり歩くね」

 大通りを歩きながら、パーシーは言った。その額には、玉のような汗が滲む。それをハンカチで拭い、一つため息を吐いた。

「しかし、血の付いた靴跡はない。恐らく、協力者が履き替えさせたのだろう。真夜中だからね。見ているのは家を追い出された呑んだくれや、同じような夜鷹くらいだ。闇に隠れてしまえば、簡単に履き替えられる」

「そうなのですね」

 アンソニーは驚くばかりだった。パーシーが、イーストエンドに足を踏み入れてまだ三度しか経っていない。


しかし、彼の頭の中には、既にここの地図が全て入っているのだ。


 本人曰く、見聞きしたものよりも、目で見たものの方が記憶に残ると言う。そう言えば、ジャスパー巡査と共に地図を見ていたな。アンソニーはそんな事を考えた。

「お、彼処のようだよ」

 パーシーは人混みをステッキで指し示した。食肉工場に向かう、出勤前の野次馬がごった返していた。

 風に乗って、血の臭いがした。


「確り調べますから! 安心してお仕事にお向かいください!」

 聞こえてくるのは、馴染みのジャスパー巡査の声だ。


「こちとら俺の稼ぎと嫁さんの売春で生活が成り立ってるンだ! これで四人目だぞ!」

「無差別殺人か?」

「夜のうちに二人も殺しておいて冷静でいられる奴を、早く捕まえて呉れ!」

 どうやら、野次馬ばかりではないようだ。

「彼らも生きていると言う事だね」

 少し距離を取り、パーシーは呟いた。

「全く、人生とは面白いものだよ。長く生きる者や、短く一生を終える者。意図せず、悪戯に命を奪われる……あぁ、あと自ら命を絶つ者もいるね。そんな者が集まって、この世界が成り立っているのだ。僕にはとても興味深いよ」

「はぁ」

 主人の主張に、ヴァレットは答える。パーシーにとって、この世は解き明かす前のパズルの小さなピースのようなものなのだろう。


 では、己はどう捉えられているのだろう?


 そんな不安が、胸に細い針を刺す。例え一欠片のピースで良い。彼の中に存在出来るのならば。


「あ、パーシヴァル侯!」

 腕を広げたまま、ジャスパー巡査は声を張り上げた。

「やぁ、ジャスパー君」

 人の間を縫って、パーシーは手を上げる。どうやら、今回は絡んでくる庶民もいないようだ。

「死体はまだあるのかな?」

「あるも何も……」

 と、ジャスパー巡査は道を開けながら、

「担架に乗せるのも大変でして……」

 そう言った。

「困っています。兎に角、ご覧ください」

「珍しいね。ヤードの方から、僕に頼るなんて」

「ケースリー巡査部長ももう、お手上げみたいです。残暑に肉が腐り始めています。早めに見聞を」


「成る程」

 パーシーは幾度かステッキを叩き、言った。

「見させて貰うよ。もう、ここの臭いにも慣れてしまったからね。お出で、アンソニー君」

 と、パーシーはアンソニーを手招いた。内心余りグロテスクなものは見たくはなかったが、主人の命令には逆らえない。小さくため息を吐き、彼は現場へと足を踏み入れた。もう、地面に流れた血は黒く乾いてしまっていた。

「ふむ。やはり始めに喉を切り裂かれているね」

「はい。腹部にはギザギザの刃で裂かれていて、腸は右肩に掛けられ、左の腎臓、そうして子宮の大部分が取り除かれていまして……」

 いつの間に来ていたのか、ジャスパー巡査が説明した。

「その上、顔は鼻が切断されていて、頬には裂傷が。それと……」


「それぞれの瞼が一インチ、五分の一インチが切り裂かれています」

 遺体図を取っていた鑑識官が、スケッチブックを閉じて言った。

「あと、頬に三角の切り込みがあって、先は彼女の目を指しているようだね」

 しゃがみこみ、パーシーは無惨な表情の夜鷹の服に触れる。ポケットに手を突っ込めば、些か眉をしかめた。


「どうかしましたか?」

 アンソニーとジャスパー巡査の声が重なった。

「面白いものがあるよ」

 パーシーはそう言って、その手に掴んだものを取り出した。

 その手には、右耳の耳介と、耳たぶの一部が握られていた。

「犯人も中々ユーモアがあるじゃあないか」

 笑いを堪えきれない様子で、パーシーは言葉を紡ぐ。

「わくわくしてきたよ。捕まえてやるよ、必ずね」

 その言葉に、アンソニーは震えていた。まるで大草原の中で獲物を狙う鷹のようだ。しかし、そんな声色とは裏腹に、パーシーの目は生き生きと輝き、まるで葉巻を賭けた賭博でもしている、賭け事師の見せるそれだった。

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