第4話 新たなる殺人
メアリー・アン・ニコルズが殺害された翌週、同じくイーストエンドをある殺人事件が駆け巡った。
「また事件のようだよ」
朝食を終え、自室で紅茶を一口飲んで。気に入りのビスキュイを口にしながら、パーシーは新聞に挟まれた号外記事を読んでいた。
「被害者はアニー・チャップマン。同じく四十過ぎの夜鷹だ。見つかったのは今日の午前六時か……。僕が新聞を手にする前に、慌てて号外記事が摺られたみたいだね。些か活版の文字が掠れている」
彼は苦笑する。
「はい」
中身のなくなったカップに紅茶を注ぎながら、アンソニーはゆっくりと頷いた。
「前回よりも情報が少ない。殺された場所すらイーストエンドとしか書いてないよ。これは見に行くしかないね」
そう言って、パーシーは揺り椅子から立ち上がった。主の降りた揺り椅子は、何処か悲しげに嘆きの軋み声を出す。
「パーシー様、紅茶が」
アンソニーが言うと、
「あぁ、そうだ。忘れていた」
そう答え、パーシーは程よく冷めた紅茶を一気に喉に押しやった。
「それでは行こうか、アンソニー君」
再びイーストエンドの入口に馬車を止め、持ち歩いているステッキを回しながら、鷹が獲物を探すように、辺りを見回す。
「きっと人集りが出来ている筈だよ? そこを目指せば良い」
「そうです、ね」
アンソニーが呟いた。
やがて、スピタルフィールズに差し掛かると、何やら人混みがあった。野次馬に揉まれてはいるが、ジャスパー巡査の姿もある。
どうやら、ここが殺人現場のようだ。
野次馬達は皆凄惨なのだろう現場に青ざめ、その中には吐瀉する者すら現れていようだ。胃液の混ざった生物の臭いが漂ってくる。それをも踏みつけて、野次馬が殺到していた。
大変なのが、それを制止する巡査達だ。
「今調査中になります! もう仕事に向かって下さい!」
「なにぃ? いつからヤードは貧民差別をするようになったんだぁ?」
一人の労働者──ユダヤ人が巡査に絡んでいる。絡まれている哀れな被害者は、顔見知りのジャスパー巡査だ。
「やぁ、ジャスパー君」
「パーシヴァル侯!」
彼は声を張り上げる。
「いやぁ、困っていたのですよ」
と、ジャスパー巡査は愚痴を溢した。すると、先程迄彼に詰め寄っていたユダヤ人が、
「おいおい、こんな所にお貴族様がいるぜぇ。ほどこしに懐中時計の一つでも頂けませんかぁ?」
パーシーに視線を向けた時だった。
「駄目ですよ」
アンソニーの声が聞こえ、パーシーの姿は彼の広い肩に隠れた。
「大丈夫だよ、アンソニー君」
パーシーは言う。
「彼も、それ程迄の勇気を持ってはいないだろう」
「何だとぉ!?」
怒った労働者は、パーシーに向かって拳を振るう。しかしそれは、アンソニーによって制止されていた。
「これ以上、パーシー様に危害を加えるならば、容赦はしませんよ?」
ユダヤ人の腕を背中で捻りながら、アンソニーは言った。そんな中で、パーシーはうっとりとした声を出す。
「このような時にでもパーシー様と呼んで呉れるようになったのだね。僕は嬉しいよ」
「ご主人様の方が良かったでしょうか?」
ユダヤ人を拘束したまま、アンソニーは答える。
「痛ぇよ!」
と、ユダヤ人は叫んだ。
「判ったよ、もうやらねぇから、兎に角離して呉れよぉ!」
「おっと、すみません」
アンソニーが腕を外すと、彼は荷物を手に一目散に逃げていった。
「すみません、我々の役目でもあるのに……」
「いえ、主人を助けるのがヴァレット──従者の役目なので」
申し訳なさそうにこうべを垂れるジャスパー巡査に、アンソニーは言った。
「有難う、アンソニー君。それで、今度はどんな状態なのだい?」
「それは私からお話いたしましょう。ジャスパーは野次馬の整理を」
と、奥からあらわれたケースリー巡査部長が言った。
「どうぞ、現場にお入り下さい」
「有難う。ケースリー君」
慇懃な挨拶を気にするでもなく、好奇心旺盛なパーシーは現場に足を踏み入れた。
「うわ……」
その光景に、思わず彼から絶望的なため息を吐いた。
「被害者はアニー・チャップマン。四十過ぎの夜鷹です。メアリー・アン・ニコルズと同じく喉に深い切り傷が。腹部は──まぁ、見ればわかるでしょうが、切り開かれていて胃の一部が左肩の上に、更に切り取られた皮膚と、何処かの肉の一部と小腸は左肩の上に……後はどうだったかな? 検視官君」
「はっ! 子宮と膀胱、膣の一部が切り取られています。本部での検視で詳しい事は判るでしょう」
「成る程」
鼻を押さえていたハンカチを畳みながら、パーシーは頷いた。もうこの場の臭いに慣れたかと思ったが、やはり事は上手くは運ばない。泥の臭いに、時間が経った血の臭い。
やはり、鼻が曲がりそうになる。
「だから言っているではないですか。貴族が足を踏み入れる場所ではないと」
恰幅の良いケースリー巡査部長は、腰に手を当てた。
「心配無用だよ、ケースリー君」
なるべく口で息をするように、パーシーは言う。
「今回も、犯人が逃げ去った後はないのかい?」
「歩いてきてお判りでしょう。まるで、ちっとも血を浴びていないようだ」
するとパーシーは、
「そう言えば、一週間くらい前の事件の時はどうだったのだい? なにか手掛かりが見つかったのかな?」
「──本当に物好きなお貴族様だ……」
ケースリー巡査部長は小声で悪態をついてから、答えた。
「滑車を取り付けたあとがありましたよ。屋上に。しかし、返り血は全く残っていませんでしたぞ」
「それは吊り上げられる者が、ロープを上着の下から通せば良いだけの話だよ。それに、水分を吸い込みやすい布のエプロンを着ていた場合、簡単にしまえるからね」
「成る程」
と、公爵の推理に巡査部長は悩み、顔を上げた。
「取り敢えず、今回も辺りを徹底的に調べさせます」
「そう言えば、ケースリー君。犯人の目処は立ったのかい?」
ステッキで地面を幾度か叩き、パーシーは尋ねた。
「いや、全くですよ。何分このような場所ですからね。金さえ積まれれば何でも引き受ける連中が巣くっております。ちょっとやそっとじゃあ見つかりません。全く、困ったものです」
と、ケースリー巡査部長は肩を竦めた。パーシーは暫く悩み、口を開いた。
「ここ迄深く喉を抉られる力があるのならば、やはり犯人は男性だろうか? それにしても──」
「それにしても?」
ケースリー巡査部長は首を傾げる。
「犯人は被害者の喉を二ヶ所も切って絶命させてから、腹を割ったのだろう? そうして、”正確に”膣や子宮を切り取っている。解剖学に秀でている人物の犯行とも取れるよ」
「例えば?」
「外科医とかね。しかし、そんな医者がこんな所に住んでいるだろうか?」
「イーストエンドは貧民の住むスラム街ですぞ。闇医者ならば、ごろごろ出てくるでしょう。よし、この辺りの闇医者の情報を集めろ!」
ケースリー巡査部長は部下に命令する。部下達は敬礼して、彼に従い散っていった。残されたのは、パーシーとアンソニー、ケースリー巡査部長の他に、検証班の数名となった。彼らは現場と被害者の写真を撮り、更にデッサンもする。
写真もまだ不安定な時代だ。人の手によって、スケッチされた方が、手っ取り早い。
「今日は被害者に触らないようにするよ。アンソニー君」
と、血の海となった現場に、磨かれた革靴で踏み込み、パーシーは言った。慌てたのはアンソニーだ。
「パーシー様!」
慌ててその腕を掴んでいた。
「今度はなんだい、アンソニー君」
怪訝な表情でパーシーは言葉を紡ぐ。
「革靴が汚れます」
「汚れたって良いじゃあないか。ジェイクがまた丁寧に磨いて呉れる」
余り事情もわからないまま、主人はヴァレットの言葉に首を傾げていた。
「それよりも、僕は死体を観察したい。どうやって腹を開いたのか、また、首はどのようにして傷つけられているかね」
「はぁ」
アンソニーは諦めて主人の手を離した。いつも無茶を聞いて呉れるフットマンへ、申し訳ない気持ちが溢れた。
「君も来給え、アンソニー君」
と、グロテスクな人の残骸を繁々と眺めながら、パーシーはアンソニーを手招いた。恐らく、他人と凄惨な現場を共有したいと言う意思なのだろう。
アンソニーは頷くと、パーシーの元へと足を向けた。
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