第2話 アンソニー・ブルーウッド
イーストエンドのホワイトチャペル付近は、ウエストエンドの娼館街からとうがたって客が取れなくなり、娼館から追い出された娼婦達が夜鷹となって落ちぶれる地域だ。ロンドンの泥の臭いが一番すると言う。
兎も角、貴族が入るべき場所ではない。
「いやぁ、楽しみだね。アンソニー君」
馬車の中、軽くステッキを操りながら、パーシーは言った。
「犯人はまず獲物の喉を切り裂いて、腹を裂いて腸迄引きずり出している」
「はぁ」
向かいに座ったアンソニーは目を更に細める。アンソニー・ブルーウッドの祖父はイギリスに帰化した日本人だ。うっすらとした琥珀色の肌、それに黒い瞳。そうして、一重瞼のその容貌は、パーシーの気分で催すアフタヌーンティーでは、ご夫人方が如何にして彼に一番始めに紅茶を淹れて貰うか。それが、恒例になっていた。
「つまらないのかい?」
信じられない。そんな面持ちで、パーシーはアンソニーへと声をかけた。
「こんなにも面白い事件なのに」
するとアンソニーは、
「……少なくとも、人が一人殺されております。あまり喜ぶべきものではないかと」
と、年下の主を注意した。
「成る程」
パーシーは暫く悩んでいたようだったが、顔を上げ、言った。
「確かに人が一人死んでいる。喜ぶのも良くないね。すまない」
「いえ、謝られる事ではありません。反省してくだされば、それで良いのです」
アンソニーは両手を振って、逆に謝った。
「無闇矢鱈に謝罪するものではないよ、アンソニー君」
「それはあなたとて同じでしょう」
「ははっ、そうだね」
揺れる馬車の中、貰った号外記事を見つつ、パーシーは笑った。
やがて馬車はイーストエンドの入り口に止められた。
「これ以上入ったら、物乞いの子供達で馬車は進めません。パーシヴァル様、ここからはお歩き下さい。私はここでお待ちしているので」
と、御者は無責任な事を言う。
「判った。それじゃあ、行くよ、アンソニー君」
「はい」
馬車の扉を開き、パーシーはアンソニーと共に外へ出る。その瞬間、彼は顔を歪めた。
「なんだい、この臭いは。鼻がやられてしまうよ」
「だからお連れしたくはなかったのです」
アンソニーはため息を吐きつつ、
「シェイクスピア劇場がありますが、ここは殆どが貧民街で、ロンドンの中でも特に酷い場所です。ここでは常に死臭と泥の臭いで溢れております」
「成る程」
ハンカチで鼻を押さえながら、パーシーは頷いた。
「お帰りになられますか?」
「いや、事件に興味があるのだ。何のためにここ迄来たと思っているんだい?」
と、彼は言って、
「で、ホワイトチャペル迄どう行ったら良い?」
無知な主人にヴァレットは半ば呆れつつ、
「記事によると、ホワイトチャペルのバックズ・ロウで見つかったとか。野次馬達の後をつければ辿り着くでしょう」
丁度その時、出勤する移民の男達が働きに行くのが見えた。彼らはここでは場違いの──上質な上着を纏ったパーシーをじろじろと眺め、去って行く。それにパーシーは頬を膨らませ、
「なんなのだ、失敬だな」
と、言った。
「話をしていたら……辿り着いたようだよ」
顔馴染みの巡査達の群れを彼は見つけると、駆けていった。
「パーシー様!」
アンソニーは慌てて主人の名を呼んだ。
「お、やっとパーシーと呼んで呉れたね、アンソニー君」
貧民街に巣くうスリにかからないようにと、彼は思わずパーシーと呼んでしまったのだ。
一線だけは越えたくはない。彼の屋敷でヴァレットの職として附く事を承諾した時から、アンソニーは心の何処かでパーシヴァル・エルマー・ヒースコートを崇拝している事に気が付いていた。
二人が出逢った事件を、筆者はいずれ語るだろう。
だが、それは今ではない。
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