倫敦怪人録
武田武蔵
第1話 パーシヴァル・エルマー・ヒースコート侯爵
1888年。スコットランド。夏が、終わろうとしていた。
「今年の夏も暑かったな。アンソニー君」
ティーポットから注がれた紅茶を一口飲んだパーシヴァル・エルマー・ヒースコート侯爵は、そう言葉を紡いだ。労働者階級では手の届かない、高級な茶葉を使ったものだ。彼が身を預けた揺り椅子が、微かな音を立てる。広いばかりの自室の壁には、母の肖像画の他、彼自身が趣味の狩りで仕留めた鹿の頭と、その下には愛用の猟銃が飾られている。
「そうですね。パーシヴァル様」
「パーシーで良いとずっと言っているじゃあないか。アンソニー君」
「はぁ」
「まぁ、良いよ」
ヴァレットのアンソニー・ブルーウッドが返した曖昧な言葉に、主人は半ば呆れたように新聞を手に取った。
妻のいない、独り身のパーシーにとって、社交シーズンや狩りのシーズンにも劣らない一番の楽しみは、連日のニュースだ。彼は春から夏にかけてロンドンの別宅に住んでいる。社交シーズンの為だ。それから帰って来た、己の領地に建てられたカントリーハウスで、日の光の元、冬はサンルーム、ある程度春が近付き暖かくなって来た頃には自室で、毎日の新聞を読む。ロンドンの別宅にいる時もしかりだ。
それは彼の、何処か他人とは違う性格から出でるもので、脳の回転を更に高速化させるのだ。そうして、暇をもて余す他の貴族仲間に、気紛れに己か、何処かのご夫人主催のアフタヌーンティーのサロンにて、まるで己が事件を解決したように話す事が、いつの間にか生き甲斐になっていた。
否、解決しているのだ。
実際スコットランドヤードの警部の夫人相手に推理を披露して、そこから犯人を捕まえている。いつしか、パーシーの頭脳は、その口から溢れるイギリス人独特のジョークを抜けば、スコットランドヤードの警察官達に頼られるようになっていた。
それを気に入らないのが、シオドラ・ケースリー巡査部長だ。そもそも、彼は余り貴族が好きではない。その上、パーシーはロンドンからはそう遠くない領地を持つと言えど、シーズンも関係なく突然事件現場に入り込み、事件をひっくり返す。それで解決した事件も多々ある為に、それも気に食わないのだ。
「……面白い記事があるね。どうやら号外記事のようだ」
足を組み直し、パーシーは言った。どうやら、フットマンが外で配られていた号外記事を新聞に挟み込んだようだった。
「何か」
さして興味も無いように、アンソニーは尋ねる。
「イーストエンドのホワイトチャペル付近で、娼婦の死体が見つかったらしい」
「娼婦の死体?」
アンソニーは首を傾げた。それと同時に、己の主人がそれに興味を惹かれている事について、冷や汗が背を伝った。
「イーストエンドは貧民街です。夜鷹達の客の取り合いでは?」
「それが違うのだよ、アンソニー君」
パーシーは言った。
「新聞によると、喉元を切られ、腹も割かれたようだ。腸が飛び出している。僕が冗談を言っていると思うかい? でも、実際にそう書かれているからなのだ。そうして何より、女性器が切り刻まれているらしい」
そうして、彼は締めのように、
「その上、現場には逃げる犯人の足跡が見つかっていないそうだよ。そんなに派手に殺人をして、血塗れの筈なのに。まるで鳥のように飛びったかの如くね」
「それは──」
アンソニーは溜め息を吐いた。
「君が淹れて呉れた紅茶を飲み終えたら、ロンドンの、ホワイトチャペル迄出向こう」
笑顔でパーシーは言った。げんなりとした御者の顔が頭に浮かぶ。そう言えば、最近目立った事件が無かった。主人は退屈をもて余している。今日は、長い一日になりそうだ。
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