第2話

「ママ、アイス!」


 息子が窓の外を指さして、嬉しそうに足をバタつかせる。胸元に抱いていた彼の足が静江の腰元を蹴り、靴下が服に擦れる。


「洋一、暴れないの」

「ほら、アイス!」


 小声でたしなめるが、洋一には静江の声は聞こえていないようで、無邪気に空を指さしている。こうなってしまうと、一度は言う通りにしないと癇癪を起してしまう。

 チラリと空に目を向ければ、ムクムクとした入道雲が浮かんでいた。ソフトクリームのように見えなくもない。


「そうね、アイスね。分かったから、大人しくして」


 幼心に母親の適当さを感じ取ったのか、洋一が頬を膨らませて唇を尖らせる。どこで覚えてきたのか、最近は不貞腐れると必ずこの顔をしていた。


「あっ! ママ、クジラ!」


 ひときわ大きな声で叫び、足を強く蹴る。痺れるような痛みを腰に感じたが、それよりも乗客の視線のほうが痛かった。

 子供は騒ぐものという共通認識があるため、面と向かって文句を言われることはないが、許容と同情を示す柔らかな口元に反して、非難と不快を表す視線は鋭い。

 反射的に洋一の口を塞ごうとして、窓の外の風景が視界の端に映った。

 瞬間、静江は口を開けたまま固まってしまった。

 紫色の空の下、鯨の巨体が宙に浮かんでいた。

 銀色の背には七色の光が輝いており、鯨が動くたびに細かな粒が周囲に散った。

 鯨がゆっくりと近づいてきて、愁いを帯びた黒い瞳と目が合う。


「クジラ……」


 鯨に触れようと手を伸ばしたとき、電車が停車した。



「それが最初。その後も何度かこの不思議な世界を見たことがあったけれど、鯨を見たのはこれが二回目」


 車窓からは、のどかな牧草地帯が地平近くまで広がっているのが見える。ロール状になった牧草がそこかしこに置かれ、茶色や黒の牛がノンビリ草を食んでいる。モコモコとした羊が群れをなし、栗毛の馬が駆け抜ける。

 しかし、今電車が走っているのは住宅街だ。

 似たような外観の家が所狭しと建てられており、緑と言えば小さな公園がいくつかある程度という場所であって、こんなに広々とした草原が広がっていると言うことはあり得ない。

 つまりは、今見ている光景も別の世界のものなのだ。


「どういう条件下で見えるのかも、いつ見えるのかもわからないの。ただ、偶然見える時があると言うだけ」


 電車が止まり、牧草地帯が消える。何の変哲もない閑静な住宅街に、子供の嬌声が響いている。視線を横に振れば、小学校の校庭で子供たちが走り回っている姿が見えた。

 暑い最中だと言うのに、子供たちはいつだって元気だ。


「でも私は、子供たちは頻繁に見えているんだと思うの。息子は電車に乗ると、よく興奮していたから」


 あの日鯨を見るまでは、雲の形や流れて行く景色のスピードにはしゃいでいるのだと思っていたと、ご婦人が懐かしむように呟く。

 そう言えば私も、電車ではしゃぐ子供を今まで何人も見ている。楽しそうに目を輝かせる横顔を見ては、こっそり微笑んでいた。もっとも、心に余裕があるときはという注釈がつくが。

 どうしても、心がささくれ立っているときは子供の声が耳につくのだ。

 己の不快を口に出すことはしないが、時折言葉にして投げつけている人を見ると、何て不寛容な人なんだと腹を立てることがあった。先ほどまで、自分だって不寛容な考えをしていたにもかかわらずだ。

 もしも子供の声に苛立つ人々の目に、この光景が見えていたらどうなるだろうか。彼ら、彼女たちだって、子供と同じように頬を高揚させ歓声を上げるだろう。


「どうして子供には見えて、大人には見えにくいんですかね」


 扉が閉まり、ぬるくなった車内を冷やすべくクーラーが稼働し始める。モーターの音と、加速し始めた電車の音が重なった。


「不思議なことを不思議だと、素直に思わなくなるからかしら」


 ご婦人の細い指が、窓に触れる。

 深く刻まれた皴と、左手の薬指で光る銀の指輪が目に入る。指輪はよく手入れがされていたが、女性と共に歩んだ時間の証が細かな傷となって残っていた。


「だって考えてもみて。電車がこんなに速く走るなんて、不思議だと思わない? 一昔前までは、もっとゆっくり走っていたわ。ずっと昔は、馬が一番速かったのよ」


 窓から手を離し、ご婦人が私を見上げると微笑んだ。


「馬で移動していた時代から見れば、電車は瞬間移動しているみたいに見えるわよね」

「それじゃあ、飛行機なんて見たら腰を抜かしますね」

「きっとそうでしょうね。空を飛ぶのは羽をもつものの特権だった時代があるんですもの。でも、人は昔から空を飛びたかったんだと思うわ」


 窓の外を真っ白な馬が翔る。背に生えた大きな一対の羽が震え、純白の羽根が空を舞う。

 羽が生えている馬は、確かユニコーンかペガサスだ。その違いが昔から分からない私だったが、息を呑むほどの神々しさに圧倒された。

 大きなアイスブルーの瞳が、私の目を真っすぐに見つめる。慈しみに満ちた眼差しを受けているうちに、記憶の奥底にしまい込んでいた遠い昔の出来事が思い出された。

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