車窓の鯨

佐倉有栖

第1話

 最寄駅から乗り込んだ電車は下町を抜け、地下に入り、最後の主要駅で大量の乗客を吐き出すと暫く停車した。

 人ごみにもまれてホームに降りていた私は、胸元に抱え込んでいたリュックを背負いなおすと車内に戻った。

 あれだけたくさん人がいたのに、今は私を含めて三人しか乗っていない。車椅子の上品そうな年配のご婦人と、座席に座って舟をこいでいるスーツ姿の中年男性だけだ。

 そろそろ発車すると言うベルが鳴り、眠っていた男性が飛び起きる。寝ぼけ眼のまま周囲を確認すると立ち上がり、閉まりかけている扉に向かって走り出した。間一髪のところで隙間をすり抜け、ホームに降りる。


(駆け込み降車はお止めください)


 ラッシュ時によく聞くアナウンスが、一語を変えて頭の中に響く。

 危険な降り方をした男性は、ホームにいた人々の鋭い視線から逃れるように俯き、足早に歩きだした。

 閉まりかけていたドアが再び開き、ゆっくりと閉じる。ドアの横にいたご婦人と目があい、口元に笑みを浮かべて会釈をした。

 一拍の後に走り出した電車はどんどん加速していき、パっと明るい光が車内に広がった。

 地下の暗さに慣れていた目が、強い光に眩む。

 私は目を瞬かせながら、誰も座っていない椅子の真ん中に腰を下ろした。

 この先は、終点まで人はほとんど乗ってこない。


 程よくかかった冷房に、座っているうちに温かくなっていくお尻。電車の揺れは心地よく、カタンカタンと言う音が眠りを誘う。

 欠伸を一つして、今にも閉じそうな目をこすると、鞄から眠気覚ましのミントを取り出して口に放り込んだ。

 電車と言うのは、どうして乗っているとこうも眠くなるのか。

 立っていれば良いのだが、二人しかいない車内で立ち続けるのもなんとなく居心地が悪い。

 チラリとご婦人に目を向ければ、真っすぐに窓の外を見ている。その横顔はどこか楽しそうで、頬がやや朱色がかっていた。

 この辺りはただの住宅街で、見ていて楽しいものでもないだろうに。初めて電車に乗った子供のように輝く目を不思議に思いながら、小さな欠伸を噛み殺す。

 目尻にたまった涙を人差し指で拭い、窓の外を見て息を呑んだ。


 青く澄み渡った夏の空が、藍色の夜空に変わっていた。

 空には淡い桃色の三日月が浮かび、七色の星が煌めいている。星は時々長く尾を引きながら流れ、ひときわ強く輝くと夜空の向こうに消えてしまう。

 本来ならあるはずの住宅街は、蛍に似た淡い黄色の光が浮かぶ海へと変わっており、耳をすませば波の音が聞こえてきた。

 汽笛のような音が、どこからともなく聞こえてくる。

 腹に響くその音は空気を震わせ、窓がビリビリと振動した。


「来るわよ!」


 ご婦人が声を上げる。

 想像よりも高い声は少女のようで、興奮した様子で空を指さしていた。

 窓の外に目を向ければ、丁度海から空へ水しぶきが上がったところだった。海面に浮かんでいた黄色の粒が空の星と溶けあい、四方八方に飛び散る。

 ひときわ高い波が空へと手を伸ばし、中から巨大な銀色の生物が姿を現す。気持ちよさそうに白い腹を見せ、ゆっくりと空に弧を描くその姿は雄大だった。


「シロナガスクジラ……」


 図鑑でしか見たことのないその生き物の名前を呟く。

 柔らかな月明かりを受けて堂々と空を飛ぶ様子に見入っていると、電車が止まった。

 一拍の後に開いたドアの向こうは、いつものホームだった。

 車内に充満していた冷気が吐き出され、ムっとした湿度を持った熱気がなだれ込んでくる。

 未だに興奮冷めやらない心臓に手を当て、今見ていたものが夢ではないことを確かめるように、リュックから水筒を取り出した。今朝入れたばかりの麦茶は、未だに冷たさを保っていた。


「まさか、月夜の鯨をまた見れるなんてね」


 ご婦人が感慨深そうにそう言って、満足気に息を吐いた。


「あの、さっきのあれって、何だったんですか?」


 尋ねながら、私は窓に近づいてガラスを詳細に観察した。ガラス面は清掃が行き届いているとは言えず、雨が乾いた後の白い点や砂埃、黒カビのようなものが薄っすらと浮かんでいた。

 ガラスがスクリーンにでもなっていないかと、角度を変えて見てみるが、ただのガラスにしか見えない。


「あれはね……実は、私にもよく分からないの」


 開いていたドアが閉じる。汚れたガラス越しの世界は、肉眼で見ていたのと寸分も変わらない、普通の住宅街だ。


「時々電車に乗っていると、窓の外に不思議な世界が広がるの。私が最初にソレに気づいたのは、今から五十年ほど前。まだ息子が三歳の時だったわ」


 電車が走り出し、徐々に加速していく。

 私は窓の外に目を向けながら、女性の話に耳を傾けた。

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