【他者視点】吾妻蘭学誕生秘話(弥太郎)

(おとうー! おとうー!)


「また夢か……」


 あれからというもの、幾度となく見た夢。


「だけど、俺は……負けるわけにはいかないんだ」


 俺、弥太郎は坪井という村に住む農家の子。両親と妹の四人で、貧しいながらもそれなりに幸せな生活をしていた。


 あの日が来るまでは……




 あの未曾有の災害の始まりはその数ヶ月前から。村は何度も地震に襲われ、そのたびに浅間の山から煙が立ち昇っていた。


 村のじいさまの話だと、浅間の山ってのは昔から大きな爆発を繰り返す山だとかで、何年とか何十年かに一度はこうなるのだという。だから、今回もそれと同じだろうと言っていた。


 ……けど、年中というわけじゃないが、小さな地鳴りとか、家がカタカタ揺れるなんてことがしょっちゅう起これば、不安にもなるものだ。


 村の大人たちは、怖がる俺や妹に対し、初めての経験だから不安なのだろうと言っていたが、日に日に爆音や揺れが大きくなるにつれ、もしかしてこれは只事ではないのでは? と感じる者が増えだしたのは、六月に入ってからのことだ。


 その月の終わり頃に大きな爆発があり、村の長老たちがどうしたものかと話をしていると、七月の頭に入って、お代官様の家来というお侍がやって来て、川沿いの低い土地に住む者は急いで逃げる支度をしろという触れを回しにきた。


「お父、逃げるってどういうこと?」

「お代官様の話だと、今回の噴火は今までにないくらいのものらしい。山が爆発してしまえば、岩やら泥やらが山裾を駆け下りて川沿いの村を襲うかもしれないんだとさ」

「でも逃げるってどこへ?」

「山の上にお堂があるだろう。いざというときはそこへ逃げる。そのときはおっ母は俺が背負うから、弥太郎はお菊を背負って逃げるんだ」


 おっ母は病気がちで、歩くのも難儀している。本当ならお父が俺を、おっ母が妹のお菊を抱えて逃げたいんだけど、それが難しいってことで、お菊を抱えるのは俺の役目のようだ。


「無理させてすまねえが、何かあったらお菊のことを頼むぞ」

「任せとけ!」


 ……なんて偉そうなことを言っていたが、実は心の何処かに、そんなことにはならないだろうなんて想いがあった。今思えば、何の根拠もなかったんだけどな。


 でも、それが油断だった。


 忘れもしない七月の八日、それまでにないくらいの大きな爆発音と地響き、そして間もなくすると、見張りをしていた村の大人が、山から滑り落ちてきた岩やら木やらが、川の流れに乗って村へと押し寄せてくると知らせてきた。


 あのときは無我夢中だった。怖がって泣き叫ぶお菊を宥めながら、必死で山の上のお堂を目指した。


 が……まさか川の流れがあれほどまでに激しくなるなんて考えもしなかった。あっという間に坪井の村は濁流に襲われ、逃げる支度の遅れた村の人が何人も流れに飲み込まれた。


 そして俺もあと少し、あと少しで逃げ切れると思ったところで足を滑らせ、川の流れに飲まれてしまった。


 そして一足先にお堂まで辿り着いたお父は、俺たちを助けるために川へ身を投じ、俺とお菊はなんとか岸まで辿り着いたが、お父はそこで力尽きたのか、そのまま濁流に飲まれていった……


 あれからその日のことを何度も夢に見た。何度叫んでも、手を伸ばしても、夢の中のお父は川の中へ姿を消す。


 これが本当に夢であったらと、嘘であったらと、見るたびに何度もそう願ったけど、それは紛れもない現実だった……




 お父を亡くした俺たち家族は、坪井から少し下流にある、おっ母の姉さんが嫁いでいた長野原という村に避難していた。


 だが、俺が最後にしくじったせいで、お父を死なせてしまったという想いしかなかった俺は、今思えば散々迷惑をかけたと思う。


 俺たちを助けるためにと、江戸から大勢のお侍たちがやって来て、家を建て直したり、畑を切り拓いてくれたりとしてくれたのに、俺はそんな人に向かって、なんでもっと早く助けに来なかったんだなんて、言いがかりにもならないような悪口を言ってしまった。


 さすがに口から出てしまった後は、俺もマズいと思ったさ。だから逃げたわけなんだけど、隠れていたところをすぐに見つかっちまった。


 これは間違いなく怒られる。そう思ったんだけど、俺を見つけた兄さんは、お侍たちに見つからないように、お頭っていう人のところへ連れて行ってくれた。


「気持ちは分からんでもないが、ありゃあ言いがかりにも程があるぜ」


 そのお頭は新三郎さんと言って、江戸の町で火消の親方をしているらしい。


 すげえ怖そうな顔したおっさんだったから、拳骨か平手打ちでもくるかと身構えたんだけど、思っていたのと違って、淡々と助けに来てくれたお侍様のことを話してくれた。


 その方の名は藤枝様と言い、お代官様が危ないから逃げろと触れを出したのも、その方が江戸で偉い人に掛け合って知らせに回ってくれたおかげらしいし、なんなら俺たちを助けに向かうと大勢のお侍たちを集めたのも、藤枝様が声をかけたからだという。


 つまり、俺はとんでもない偉い人に恩知らずな言葉を叩きつけてしまったわけだ。


「俺、怒られますよね……」

「怒られるだけならいいが、普通なら死罪だぜ」

「死罪……」

「まあ心配すんな。藤枝様のことだからそこまで無体なことはしねえと思うが、取りあえず謝りには行かねえとな」


 こうして、新三郎さんに連れられて藤枝様に謝りに行くと、案の定しこたま怒られた。


「己の身に何かあっても子らを救おうとしたその想い。万が一自身が命を落としても子には生き延びてほしいと願う気持ち。そして、病身の母と幼い妹を息子に託したその気持ち。今のお主の態度はそれを無にするものじゃ。それでは父上が浮かばれぬわ」


 だけど、藤枝様が怒っていたのは、俺が恩を仇で返すようなことを言ったこと以上に、俺がお父の想いを無駄にしているからだと厳しく叱責された。


「お主が生きる力を失えば、母上は心を痛めるとは思わぬか? 幼い妹は誰を頼ればいいと途方に暮れるとは思わんのか?」


 そう言われると、途端にお父が川に流されていくときの顔が思い浮かんだ。


 あのとき、お父は自分が川に流されていくにもかかわらず、なんとなく安堵したような表情だったように思えた。


 もしかしたら、それは俺が良いように考えているだけかもしれない。でもそのことを藤枝様に話すと、子供の命が助かって喜ばない親などおらんと言ってくれた。そして、お父の代わりにおっ母とお菊を守るのは俺しかいないんだぞとも……




 だけど、俺にはまだそんな力は無い。そう言うと、藤枝様は俺に学問を教えてくださると言うではないか。


 お侍様が、ただの農民の子供になんでそこまでしてくれるのかと聞いたら、藤枝様も志半ばでお亡くなりになった方の想いを受け継いで、己が出来ることを懸命にやっているのだと仰る。だから、お父に後のことを託されたのにウジウジしている俺を見て、腹が立つのだと言う。


「お前の父が遺した想い、受け継ぐのはお前の心一つだぞ」

「……やります。いえ、やらせてください」


 そのとき、俺の心は決まった。藤枝様は、野良仕事の方が楽かと思えるくらいに厳しく扱くと仰せであったが、その知恵が俺を、家族を守る力になると思えば、うんと言うしかないだろうよ。




 こうして、俺は藤枝様がここに滞在する間、その弟子のような形でお仕えすることとなった。


 雑用は師匠の家来である又三郎さんから厳しく指導され、学問は師匠やそのお弟子の大槻様から、これまた厳しく指導された。


 なにしろ読み書きすら教わったことが無かったからな。言われた通り、桑や鋤を担いで畑を耕していた方が楽といえば楽だったかもしれないが、知らないことを覚えていくと世界が広がるという藤枝様の言葉は正しかった。


 文字が読めると新しい知恵が身に付く。それは言葉で伝えられるよりも早く、書を通して自ら新たなものを知ることが出来るからだ。




「お師匠様、こちらの書物はなんですか?」

「おお、これは蘭書と申す」


 そんなある日、師匠の手元にあった一冊の本。そこに書かれていたのは、俺が教わった文字とはまた違う、不思議な文字で書かれた書物で、聞けば海の彼方オランダという国の文字で書かれた本だという。


「海の彼方……」

「弥太郎は海を見たことが無いだろうからな。中々想像できまい」


 師匠はついでだからと海の向こうの話をしてくれた。


 この国には無い新しい知識や技術。師匠はそれらを用いて、この国をより豊かにするために働いているという。ここいらの村で稲作を止めて他の作物に変えたのも、その知識によるものだという。


「俺も勉強したらこの本が読めるようになりますか?」

「そんな簡単なものではない。だが、いつかこういう村々の者でも蘭書を読めるようになる未来が来るかもしれない。それは私やお主たちのような若い者たちのこれからの努力次第よ」


 師匠はそういって笑った。でもそれを見た俺は、この人にずっと教われば、いつか読めるようになるのではないかと思えずにはいられなかった。


 そう思えばこそ、あのときのことが夢に何度出てきても、俺は前を向いて歩くんだと、挫けることのない力になった。




 ……けど、それからしばらく後、夢は夢のままで終わるかもしれないという出来事があった。


 それは村々の復旧が終わり、師匠をはじめとするお侍様たちが江戸へ帰ることになった日のことだ。


 俺はてっきり、師匠がここのお殿様で、だから被害に遭った村を助けに来たのだとばかり思っていたが、実は師匠より偉い人に命じられて助けに来ただけらしい。


 もしここのお殿様だったら、家来にしてもらって蘭学を教えてもらおうなんて都合のいいことを考えていたから、ちょっと悲しくなってしまった。


「人の縁なんて気まぐれだ。会えると思っていた者と急に会えなくなることもあれば、今生の別れと思ったらまさかの再会を果たすなんてこともある。もしかしたら、また会えるやもしれん」


 俺が悲しそうな顔をしているのを見てか、師匠がそんなことを話してくれた。


 多分、俺が気落ちしないように、そしておっ母やお菊をしっかり守れるように勉強を続けろよという励ましなんだろう。


 分かってますよ。言われなくても頑張りますよ!




――それからしばらく後


「弥太郎、お前字が読めるんだろ。なんて書いてあるんだ」


 師匠が江戸に戻ってしばらくしたある日、村の広場に高札が掲げられた。


 普段はお代官様の家来とか名主さんなど、字の読める人が村のみんなの前で読んで教えるんだけど、今日はたまたま高札が掲げられたところに俺がいたので、大人たちが俺に読めと言ってきたんだ。


「えーと……この村を治めるお殿様が……変わる?」

「変わる? 誰にだい」

「慌てないでよ。うんと、これからは中之条藩という藩の領地になる。そのお殿様は、藤枝……治部少輔……お師匠様!」


 藤枝治部少輔。その名を口にした途端、村の者たちがわっと喝采をあげた。


 だよな。みんなもそう思うよな。


 まさか……近いうちに会えるって言ったのは、こうなることを分かっていたのか!



 ◆



 この後、当地を治める領主となった治部少輔の下、中之条に蘭学塾が開かれ、多くの若者が新たな学問に触れたことで、吾妻郡は江戸や長崎にも負けぬ蘭学の一大聖地となる。


 そして、その蘭学塾で教鞭をとる者の中に、坪井村出身の若者がいたのだが、それはもうしばらく先のお話となる……



◆ ◆ あとがき ◆ ◆


史実の「吾妻蘭学」は、天保の頃、漢方医学に行き詰まりを感じた地元の医師達が、西洋医学を取り入れる為、師として高野長英を吾妻郡沢渡に招きいれたのがその興りと言われており、沢渡温泉を中心に、長英にまつわるエピソードが数多くあるそうです。


とはいえ、今回も治部がまた先取りしてしまいました……



次回、登場人物まとめにて第六章完結です。よろしくお願いします。

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