〈第六章〉

神田須田町・蘭学塾「三旗堂」

――天明二(1782)年


『三旗堂』


 神田須田町。湯島妻恋坂から南、明神様の脇を抜け、神田川に架かる昌平橋を越えた先にあるそこに俺の私塾兼診療所がある。


 名前の三旗なんだが、これはオランダの三色旗トリコロールを語源としている。未来ではフランスが有名かもしれないが、実は世界初の三色旗はオランダ国旗なのだ。ここは医学や農学、算術も教えるが、その根幹は蘭学だからね。オランダリスペクトっす。


 なので本当は「蘭」の字を入れようかとも迷ったが、俺の私塾と聞けば嫌でも蘭学と分かるだろうから、ベタなネーミングは避けた。


 ただ、あまりそれを前面に押し出すと煩い輩も多いので、「向学」「進取」「済民」という三つの志を塾の理念として……要はここで学問したい奴は教わるだけじゃなくて自ら進んで学べ、そしてその知識を広く還元して世のために働け、みたいな感じの旗印を掲げて三旗堂なんだという理由付けをしたのだ。


 で、なんで須田町を選んだのかというと、元々湯島の屋敷で開いていた寺子屋がやりにくくなったんだよね。




 子供相手にそろばんや読み書き、野菜作りなどを教えていくうちに、珍しいご飯が食べられると評判が立ち、参加者が増えたことで手狭になったことが一つ。


 この頃の湯島というのは近くに神田明神や寛永寺といった寺社もあるんだが、その間の一帯は武家屋敷が立ち並ぶ町で、町人がホイホイ遊びに来るような場所ではなかったりする。


 だからそこへ子供たちが来ていることを良く思わない武家もいるし、ワイワイやっていれば近所迷惑だと言われるのももっともだ。そのせいで行き帰りの道すがら、質の悪い侍に目を付けたりされてはかわいそうだからね。


 そしてもう一つは、俺が名を上げるに従って蘭学や医学を志す者の弟子入り志願が増えてきたことにある。


 それは決して悪いことではないが、ウチの近所にはかの湯島聖堂が存在する。これは五代綱吉公によって建てられた孔子廟であり、それを管理する林大学頭家の私塾。孔子を祀っているのだから、何を教えているかと言えば当然儒学。儒学者にとっては聖地みたいなものだ。


 ところが、近年は実学を重んじる風潮から儒学を学ぶ者が減り、学問所としての規模はかなり縮小気味と聞く。そんなところへ目と鼻の先に商売敵とも言える蘭学塾が開かれるとなったら、困窮にあえぐ大学頭家ブチギレ案件であろう。余計な諍いを起こしたくはないので、神田川の向こう側にある町人の居住地須田町で寺子屋と診療所も兼ねた私塾を開設することとしたのだ。


 ぶっちゃけ屋敷とここは、湯島聖堂との距離は然程変わらないのだが、川を隔てたことと町人の居住地に構えたということで、一応配慮してるんだぜという姿勢は見せているのだ。




 ちなみにここへの入塾なんだが、寺子屋は勉強を教わる代わりに、今まで通り農業試験用の畑を手伝うことが条件だ。


 これは労働力確保という面もあるが、以前にも話したように子供たちにパンや芋を食べさせてその味に慣れてもらうこと、そして家庭菜園的な感じで野菜を育てるときの経験になってくれればという目論見は変わらない。


 それと、これはまだ数年先の話になるが、ここで学んだ子供をしかるべき場所で働かせるという計画もある。算術や文字の読み書きが出来れば、商家とか代書屋で働くなど、なにがしかの仕事が出来ると考えている。


 江戸時代の日本は、世界に比べ識字率が高かったという話を聞いたことがある。この時代に転生してみて、たしかに江戸庶民の読み書きの水準はそれなりに高いと感じたが、読みに関しては言葉の正確な意味まで読み解ける者はそれほど多くないし、書く方も自分の名前くらいという人が大半で、未来人が想像する識字とか教育みたいなところから比べたらまだまだ改善の余地は多く残っている。


 商家の場合は幼いころから囲い込んで一人前に育てるという年季奉公の制度によって、物になるかどうかもわからぬ幼子のうちから面倒を見ているわけだが、実際に年季が明けても使い物にならないと手代へ採用しない者は多いみたいだし、病気で亡くなる、もしくは働けなくなるなんてリスクもあるから、算術やらその他の知識を持っている者を即戦力として雇うというのは都合の良い面もあるだろう。


 そして武家のほうでも使用人の人手不足は深刻だ。それは主に収入の減少により必要な使用人すら雇うことが出来なくなっているからなのだが、中には手紙やら文書をまともに書ける人材すらいない家も多いから、町人とはいえ文書が書けたり計算が出来る存在というのは重宝するかもしれない。


 もちろん一番の有望株は藤枝の家で採用するけどね。




 当然就職先のしきたりとか、業界のルールなんてものを学ぶ時間は必要だし、雇いたいと思わせるだけの能力を持つよう育てなくては意味が無いが、そこは藤枝流教育メソッドの出番だ。


 子供たちに誰が教えるのかといえば、学問所へ入塾を希望する者たちだ。彼らには交代で寺子屋の子供たちにそろばんや読み書きなどを教える教導役を務めてもらうのが弟子入りの条件になる。


 口で言うと簡単に思えるが、人に物を教えるというのはそれなりにコツがいる。まして相手はガキンチョたちだからね。弟子入り志願者は主に旗本や武家の子弟、各藩の藩士が多いのだが、いつもみたいに武士でござると威張り散らしているようでは懐いてくれないし、かと言って甘々では言うことを聞いてくれないだろう。


 こちらも目的は明確で、ここで学んだ者は必ずその知識を多くの者に教え広めてもらいたいからだ。教育実習ではないが、後々自分の私塾を持ったとき、子供たちに教えた経験が生かされるのではと思っている。


 もちろんそれを嫌がる者はいる。何で武士である自分が町人の子供のお守りを……と言う者もいた。だが俺の考えは塾の理念の一つに「済民」を掲げているように、得た知識を周囲に還元することを目指しており、周囲から大学者様と崇め奉られるだけの存在になってもらうつもりはないから、嫌なら入塾はお断りだ! と追い払うことにした。


 実際これで引き下がる者は、本気で蘭学を志したわけではなく、俺が名を上げたことに乗っかって、ちょっと始めてみるかくらいの軽い気持ちの者や、俺に師事したという箔が欲しいだけの者など、本気で取り組もうという気概の見えない者ばかりだったので、篩にかけたと思えばちょうど良かったかもしれない。




 今のところは元からの弟子である茂さんこと陸奥一関出身の大槻茂質殿、仙台藩医工藤平助殿の娘綾子殿。そして……


「最後の止めをしっかり……そうそう、上手に書けているわ」


 藤枝家の女中として雇って教育を施してきた綾あたりが中心となって教えている。そんな彼女も今年で十六。未来ならば高校生になるかならないかくらいの年齢となった。


 種もそうだったが、彼女も栄養と運動という身体作りに必要な要素をしっかりと吸収したおかげか、今ではだいぶ女性らしい体つきに成長した。寺子屋での指導のほか、幼い頃から畑仕事にも汗を流し、程よく日に焼けた健康系の美少女って感じだな。


 この時代は色白が美人の条件だから、あまり日に焼けすぎるのもどうかと心配したものだが、当の本人は「その程度で人の選り好みをする男など、こちらから願い下げですよ」と涼しい顔だ。


 そもそも彼女は、生活に困っていた自分たちを拾ってくれた恩を返すのが一番だと考えているらしく、それが自身の生活の保障にもつながるとあって、結婚はあまり頭にないようだ。




「おお、難しい漢字だがよう書けておるぞ」


 さらにもう一人、貧乏旗本の部屋住安田賢七郎……と称する松平上総介定信様。


 白河藩の次期藩主がなんで? と思うかもしれないが、実は以前、綾が体力作りの指南をして以来、定信様の御正室峰子様に気に入られたようで、今でも時々健康相談や栄養指南と称して話し相手に呼ばれているのだ。定信様は綾がそれで時間を取られる分、こちらの手伝いをしてやると推参しているのだ。


 ……さすがに俺が頼むわけはないぞ。


 噂では藩主定邦公もそろそろ家督をと考えておられるやに聞くし、定信様もお忍びは楽しいけれど、そろそろそれも難しくなってきたと肌で感じているからこそ、こうして今のうちに羽を伸ばそうとしているのだと思う。


 あとは……


「治部、何を遠目でニヤニヤしておる」

「いやいや、綾と仲良くやっておいでのようで何よりと」


 これは種の見立てなんだけど、定信様は綾のことを買っておいでのようだ。それは俺も感じていたが、種が言うには才ある者をというほかに、女子として見ているのではないかとのこと。生前の宗武公が綾を大事に育てよと仰せであったのも、それが故であろうと。


 まあたしかに、定信様が来るのは綾がいるときだけだからな。彼女の代わりに教えると言いつつ、綾が白河藩邸に行くときは自分も藩邸におるし、そういうことなのだろう。


 分かりやすく言えば、悪い虫が付かないように見張っている面もある。なにしろ弟子が増えたからね、年の頃合いがちょうどいい男たちも少なくない。




「ご破算で願いましては……」


 その一人が向こうでそろばんを教えている長丸という今年十九になる若者。


 とうに元服してもおかしくない年の青年がどうして未だ幼名のままなのかというと、実は彼の父はかつて幕府で奏者番を務めた元山形藩主・秋元永朝。


 そう……東海寺の変で失脚した秋元家の御曹司なのだ。



◆ ◆ あとがき ◆ ◆

第六章開始です。

コメントにあったので補足しておくと、東海寺の変は第四章ラストで発生した一橋の将軍位簒奪騒動のことで、当然架空の出来事です。

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