第9話 こくはつ②
白い部屋には痛いほどの静寂だけが満ちていた。
その場の誰もが暫し硬直し、その後に続く何かを待っているかのよう。
けれど受け身の姿勢ではなかった。全員が探偵だ。異常事態に備え、事件に立ち向かう。そんな悲壮な決意めいたものがその場の空気から覗えた。
「えっ、あれ、モモコちゃん? えっ嘘、嘘嘘嘘。ほんもの? 私ファンですよ! いつも配信観てます。サインください!」
本当に、危機感が欠如しているというか、マイペースというか空気を読まないというか。
一番遅く目覚めた筈の高梨羽衣里は、まだ寝ぼけ眼を擦りつつも、目聡く標的を発見していた。
「そ、そだけど」あんた誰、と言わんばかりの怪訝そうな表情を浮かべ、足利さんは戸惑う。というか当人を除く全員が当惑していた。まだ自己紹介も済ませていないというのに……これだから起こしたくはなかったんだ。良くも悪くも、その場の空気がめちゃくちゃになる。
本当なら、ここで黒幕やらからの状況説明やらアナウンスやらが始まるんじゃないのか。
羽衣里はサインをねだる物体を探しているのか、女子大生が持っている不自然に小さいカバンを「スマホないなあ、財布ないなあ……おかしいなあ」とか何とか云いつつ探りつつ、講義のレジュメを奥の方からなんとかして引っ張り出すと、足利さんに向け突き出した。
足利さんは「しょうがないな」みたいな、児童をあやす保育士さんみたいな感じで屈むと、小柄な羽衣里の手許にサインペンを走らせる。器用に回り込むような筆使い。左利きだ。
「わあっ、わあ! 夢みたい! すごいすごい。もう今日、死んでもいいかも……」
恍惚とした表情で戦果を確かめ、インクが乾いたのを見計らい一度だけ軽く抱擁すると、手早くカバンにしまった。
「余裕だねえ」ツガムラは苦笑している。
猿轡の少年は舌打ちでもしたそうに場の状況を眺め、ワンピースの青白い女性は未だに周囲を警戒の目線で見まわしていた。
「それでさ、これってどういう状況?」羽衣里は僕にではなく、その場の全員に、あるいはこの部屋の空気のようなモノに向けて言った。ちょうど好奇心旺盛な小学生が教室で手を上げ教師に無邪気な疑問を投げかけるように。
「あんた、ある意味本当に凄いわね」足利さんは呆れたように言う。
けれど足利さんの言うように、羽衣里の妙な行動のお陰で、先ほどまでの妙に張り詰めた空気はすっかり霧散していた。その場の誰もが毒気が抜かれたような、あるいは狐につままれたような表情をしている。迸るような緊張感は押し流され、残念ながらもう感ぜられない。
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