第6話 取引

 アズサは想像する。できることはそれだけだった。


 眼前の、七つの瞳と六つの足を持つ怪物がいったい何を望むのか? 取引が成立する材料は何か?


 財宝も地位も権力もこの怪物には価値を持たないだろう。


 では、アズサがもし命を捧げると言ったら? 否、ハティは一息のもとに目の前の矮小な人間の首を落とせる。取引など不要だ。


 ハティはダンジョンの奥深くで孤独に数百年を生きてきた存在で、およそ彼女の望むものなど無いように思える。


 それでも「わからない」では済まされない。アズサは想像する。ひたすらに想像する。


 もし自分がこの大狼として数百年余の時を過ごしてきたとする。そこに冒険者という小童共が降って湧いた。


 その内の一人が不躾にも「取引がしたい」などと宣った。いったいどんな答えを受ければ満足する?


 ……とうてい思いつきそうになかった。失せろ、そして二度と眠りの邪魔をするな――そんな咆哮と共に爪を振るうに決まっている。


「さあ、聞かせておくれ! アタシはもう待ちくたびれた、時間切れだよ!」


 痛いほどの威圧感がびりびりと伝わってくる。


 そして、アズサは口を開いた。


「……ハティさん。きっとあなたにはどんな財宝も、私の命でさえ、取るに足らない」


「よく理解してるね? そのとおりさ。人間の有難がるものなんざあたしにとって露ほども価値がない。あたしが望むのはただ一つ――」


「それは、平穏」


 アズサの言葉に、ハティは一斉に瞳を細めた。彼女が初めて見せた動揺だった。


 いける。アズサは言葉を継いだ。恐怖が勇気を押しのける前に早く、早く。


「冒険者が清青鍾洞を訪れるようになり、あなたは眠りを妨げられた。だから私が、二度とこの地に冒険者が訪れないようにする。二度と眠りが妨げられないようにする」


「……到底信じられない言葉だね。あんたがそれほどの権力を持っているようには見えないがね」


 それは痛いところで、アズサにそんなこと保証はできない。それでも。


「それでも、勝算はある。先日あなたが屠った冒険者たち、彼らはセプテントリオンという名のあるパーティ。あなたに挑むことは、彼らをも死に至らしめる無謀なのだと、故に清青鍾洞深部への立ち入りを禁ずる……私にはその決定権はない、でも、それを宣伝することはできる」


 セプテントリオンの全滅の原因は公に明かされていない。ロカの件をもとに、彼らの全滅事由を正式に公表できれば、勝算は十分にありそうだ。


 ハティは、初めて長いこと口を閉ざしていた。裁判の判決がくだされるまでの時間だ。とどのつまりアズサは無力で、裁かれるだけの存在だ。


 だから祈った。残酷な評定がくだされないことを。ハティの気があっさりと変わってしまわないことを。


「……ま、いいだろう。それだって何の保証にもならないさ。それでも、あんたのその目。凡百の愚か者と違ってアタシへの敬意がある。それだけは信頼できそうだよ」


「あ、ありがとうございます」


 どっと肩の荷がおりた。脱力でへたり込みそうだったが、アズサは何とか腹に力を込める。まだ、肝心の仕事が残っている。


「さて、取引といったね? あんたからの物はそれで良いさ。で? アタシに何を望むんだい? 言っておくがアタシは魔術も得意じゃないし、不老不死やら金銀財宝やら望まれても困るとだけは言っておくよ」


「……私は知りたい。先日あなたが全滅させた三人組の冒険者がいたはず。彼らのことを教えてほしい」


「三人組ねえ……さっきも何か言っていたね? セプテンどうたらとか」


「彼らはセプテントリオンというパーティ。なんでもいい、どんな情報でも知りたい」


「まあ、たしかにそんな名前を名乗っていた連中を屠ったさ。人間にしては腕の立つ連中だったよ。ただ連中は五人組だったがね」


「五人……! その五人はどんな……」


 やはり、そうだ。アズサは自分が真実に触れかけているのを感じた。胸の奥がピリピリと浮つく。


 セプテントリオンは三人パーティのはず。だがハティが見た時は五人もメンバーがいた。増えた二人のうち一人はロカに違いない。そしてもう一人、Xはやはり存在したのだ。


「そうさね……アタシが屠った三人はよく連携が取れていた。その分逃げ遅れたようだがね。あとコボルド族の若者もいたね? ま、そいつも腕は良かったさ。あと顔も良かったね? あと三百年も生きればアタシ好みのいい男になりそうだったけどねえ」


 ロカのことだ。ロカがセプテントリオンと同行していたこと、その裏付けがついに取れた。


「それで最後の一人は――」


 そのことを尋ねた瞬間、ハティの七つの瞳が苛立ちに燃え上がった。


「とんでもない碌でなしだったさ! そいつはね、アタシを見るなり他の四人に言ったもんさ。あの魔物の生首を取ってこい、とね! あの礼儀知らずの大馬鹿者はなんなんだい? この洞穴の奥深くにまるで社交界でも出るような身なりで、お仲間が殺されてる間に脇目も振らず逃げ出したのさ。コボルド族の若者を無理矢理に引き連れてね!」


「そ、その人の名前は!?」


「ああ、確かマズルとか呼ばれていたっけね。それで役に立つのかい?」


「マズル……」


 アズサは事前にセプテントリオンの関係者を調べ、頭に叩き込んできた。だがマズルという名はそこに無かった。


 しかしヒントはある。ハティの危険度はセプテントリオンも十分承知のはずだった。そんな彼らを無理矢理に戦わせられる、強い権力の持ち主。


 ふと、一人だけその条件に合致する「マズル」がアズサの脳裏に閃いた。だがそれは絶望的な真実でもあった。


 もしマズルが私の考える男なら、この件はこれでおしまいだ――。


 ふらふらと頭がくらむ。ハティが静かに息を吐いた。


「アタシの知っていることは全部さ。どうもその様子だと、望む結果は得られなかったようだね?」


「い、いえ……感謝いたします。これで真実に近づける」


「真実! いつだって目を背けたくなる腐臭がするもんさ。ま、せいぜい頑張ることだね!」


 もはやアズサに興味を失ったように、ハティはのっそりとした動きでねぐらの奥へと消えていった。


 ハティ――大噛主相対して首と胴がつながっている。その時点で奇跡的なことだというのに、アズサの気分は重い。


 だが足を止めている暇もなかった。まずは清青鍾洞から脱出しなければならない。絶望に打ちひしがれていても誰も助けてなどくれない。


 歯を食いしばり、アズサは足を動かす。どんな時も最後は足を動かすしかないのだから。

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