第5話 実地調査リターンズ

 清青鍾洞。中級冒険者の登竜門と呼ばれるこの青いダンジョンにアズサは再び戻ってきた。全ては真実を明らかにするために。自分自身の真実に立ち向かうために。


 ただし今、傍らにムルルラグはいない。アズサを守ってくれる冒険者は誰もいない。頼れるのは護身用のナイフ一本と、必死に詰め込んできたダンジョン知識だけだった。


 怖い――。


 孤独が時間感覚を引き伸ばす。もう何時間も進んでいるようなのに、普段の半分のペースもでていない。


 すぐ先の曲がり角を有毒のゲル状生命体であるポイズン・ブロブが這いずっていく。見つかれば終わりだ。鍾乳石の裏に身を隠し、息を殺す。


 一人でダンジョンに潜るのがこんなに怖いなんて――。


 いかに自分がダンジョン内で守られていたのかがわかった。冒険者という人種の偉大さと狂気がいっぺんに身にしみる。彼らはこんなところで何日も野営をしたりするのだから。


 頭を振って余計な考えを追い出し、アズサは奥へ奥へと突き進んでいく。道中で凶悪なストーンビーストとすれ違い、吸血口中の群れを祈りながらやり過ごした。


 気配殺しの魔石を買い込んでよかった、無かったらもう五回は死んでた――。


 しかし高価な魔石は封を解いて十分も使うと淀み、ただの石になってしまう。だから止まることは許されない。帰り道だってあるのだから。


 否応なくノンストップの行軍が余儀なくされた。眠りこけるラセンリュウモドキの鼻先を駆け抜け、底なし沼に足を取られかける。


 だが泣き言を吐き出す相手はいない。その時間もない。


 ただひたすら眼の前の危険をかいくぐることに集中する。永遠に覚めない悪夢のように次から次へと死が口を開けてアズサを飲み込もうと迫った。セプテントリオンを見つけた場所に戻った頃には、もう全身の体力と気力をすっかり使い果たした気分だった。だが仕事はこれからだ。


 やっぱり三人分しかない――。


 今や死骸虫によって完全に白骨化したセプテントリオンの三人に短く祈りを捧げ、彼らの周囲を調べ始める。


 もちろんアズサは(途中で邪魔が入ったとは言え)既に現場を調べている。だが彼女は経験則で理解していた。人間の認知能力の限界を。


 人の認知認識とは不思議なもので、全く同じものを見せても常に同じものを見出すとは限らない。なぜなら人間の能力はごく限られたものにすぎないからだ。


 空に架かる虹を見て七色だと言う者がいる。五色しかないと言う者もいるし、十色を超えると言う者もいる。


 では何が人間の認識を決めるのか? とどのつまり、七色だと思うから七色に見えるのである。人間の目は見たいものを見ようとする時は素晴らしい仕事をするが、見ようとしないものは驚くほど容易に切り捨ててしまう。


 故にアズサたち事故調査官は「自分が何を探しているかわからない」という状況を恐れる。目星の着つかない調査は決まって泥沼にハマる。


 以前のアズサもそうだった。セプテントリオンの予想外の全滅に困惑し、闇雲に情報を集めることしかできなかった。


 だが今は違う。ロカが彼らに同行していた可能性が高いという情報がある。


 そして証拠はすぐに見つかった。最も基本的で原始的な証拠の一つ。足跡だ。


 間違いない、ここには明らかに四種類以上の足跡がある――。


 アズサとムルルラグのものは除外しても、セプテントリオンの三人のものに加え、全く異なる足跡が三種類ある。


 三種類――?


 うち一つは明らかに大噛主のものだった。さらにもう一つはロカのものだと推測できる。では最後のもう一つは?


 アズサの頭の中で繋がりかけていた糸が絡まっていく。解きほぐすには情報が足りていない。


 セプテントリオンと一緒にいたのはロカだけではなかった。それは何者だ?


 もちろん全然関係ない別人の足跡という可能性もある。アズサは慎重に証拠を集めていった。セプテントリオンとロカの足跡は全て大噛主の根城から続いてきている。一つ一つの足跡の間隔を見れば彼らが走って逃げてきたことは明らかだ。大噛主の六つ足の跡もそれにピッタリ追いすがってきていることから、ロカがセプテントリオンと共に逃げてきたことはますます疑いようがなかった。


 しかし正体不明の足跡――アズサは心のなかでXと呼ぶすることにした――はロカたちと同じ道を辿っている。故にXが無関係の人物とは考え難お。Xもまたロカとセプテントリオンと共に大噛主から逃げてきあはずだった。


 だが肝心の正体がつかめない。一方でアズサは、Xの正体が全ての謎を結びつけている鍵になるような予感がした。

 謎が謎を呼ぶ一方、良い発見もあった。セプテントリオンの三人の足跡はこの場で途切れている(つまりここで戦死したわけだ)が、ロカとXの足跡は出口の方まで続いていた。


 ロカさんは生きてるのかも――。


 アズサの心がざわめく。一刻も早くこのことをニニに伝えたかった。とはいえ事実としてわかっているのは「ロカはここでは死ななかった」ということだけで、生きているという保証もまた存在しない。


 単に、この場は生き延びたが別の場所で力尽きた……その可能性の方が高いような気もした。もし生きているならなぜ姿を見せないのか? ロカとニニが深い絆で結ばれていることはアズサも理解している。ロカが生きているなら真っ先にニニの所を訪れるはずだ。


 アズサは首を振って余計な推理を追い出す。とにかく情報が少なすぎた。目星をつけるのは大切だが、無駄な推理で不安になっても仕方ない。


 とはいえ調査が行き詰まったのも事実だ。このセプテントリオンの全滅現場は多くのことをアズサに伝えてくれたが、それも限界だった。


 ああ、せめて目撃者の一人でもいてくれれば――。


 無論このダンジョン深くに目撃者などいない。辛うじてそう言えそうなものは、もはや物言わぬ白骨死体たちと、彼らを死に至らしめた大噛主くらいのものである。


「大噛主……」


 瞬間、アズサに電撃走る。それはあまりに危険な賭けだった。自分の思いつきの恐ろしさに彼女は震え上がった。


「大噛主なら全て見ていたはず……全て……」


 ふと、両足がふらふらと清青鍾洞の最深部に向かっていることにアズサは気がついた。この先にはもう何もありはしない。あるのはただ、清青鍾洞の住まうねぐらだけだ。


「アズサ。自分が何をしようとしてるかわかってる? 大噛主は恐ろしい魔物で、セプテントリオンを全滅させるほど凶悪。私なんか瞬殺されるだけ」


 アズサは自分の理性の声を聞いた。あるいはむしろ本能――生存本能の声かもしれなかった。なんでも同じことだ。彼女は自分の心に向けて静かに返す。


 私は大噛主を倒しに行くわけじゃない。高位の魔物は人間より高い知能を持っているし、対話もできる。これは賭け。その先に真実へのヒントがあるなら、私は挑んでやる――。


 もう大噛主の寝床はすぐそこだった。重々しい寝息が聞こえる。アズサのブーツが土を踏みしめる音。寝息がすぅっと止まった。何か大きな質量ある影が素早くアズサの背後へと動いた。反応する暇などありはしなかった。


「あ――」


 咄嗟に振り返ると目があった。真紅に輝く七つの瞳。アズサの三倍以上もある巨体。


 心臓を鷲掴みにされるような絶望感が駆け巡る。大噛主が目と鼻の先にいる。


 それが獰猛な牙の隙間から煮えたぎった呼気が吐き出される度、アズサは気絶しそうな恐怖に襲われた。腹に極限の力を込めていなければ本当に意識を手放してしまう。直感的にそう理解した。


「またぞろ現れたのかい……いつもいつもアタシの眠りの邪魔をするボウケンシャ共……」


 しわがれ、ざらついた、老婆のような唸り声。それが大噛主の声なのだ。明らかな苛立ちの色。声を上げて逃げ出したくなる衝動をアズサは必死に押し殺す。


「お、大噛主さん……お眠りのところを、すみません……」


 アズサはなんとか声を振り絞るも、本当に自分が発声できているのか自信がなかった。それくらい喉が引きつっていた。唾が乾ききり、血を吐き出してしまいそうだ。


「大噛主ねえ……その呼び方は嫌いだよ。アタシも長く生きて、多くの名前で呼ばれてきた……大噛主ってのはその中じゃとびきりに気に入らない……そうそう、最初はハティと呼ばれていたんだ。まだこんな風に醜い姿もしちゃいなかった。それはそれは可愛いもんだったさ」


 七つの瞳が細まる。笑っているのだとアズサは遅れて気がついた。


 なぜか対話が成立している。セプテントリオンを屠り、ムルルラグに瀕死の重傷を負わせた怪物と。


 これはただの気まぐれなのだろうか? 人が虫を殺すかどうか決めかねている時のように、ただ魔物の余裕と慈悲によって生かされているだけなのだろうか?


 どうでもよかった。アズサはただ祈った。自分が選択に失敗しないことを。この予想外に饒舌な魔物の気が変わり、あっけなく自分の首が跳ね飛ばされないことを。


「えと……ハティさん……?」


「ああ懐かしい響きさ……それで? あんたもまたアタシの首を取りに来たんだろう? その割にはずいぶんと弱っちい装備じゃないか」


「違う、私は――私はアズサ。名乗るのが遅くなってすみません――」


「フン……この間の連中よりは、少しくらい礼儀をわきまえているんだね?」


「ありがとうござ――」


「いいや、昔の人間は誰でももっと礼儀正しいものだったさ! アタシたち魔族に敬意を持っていた! それがいったい今のアンタらは何なんだい? ボウケンシャ? 人の庭にズカズカと上がり込んで? アタシは何度寝首をかかれそうになったか知れない。ハッ! 皆アタシの腹に収まったけどね? 愚かな連中だよ!」


 大噛主、もといハティが叫ぶ度にビリビリと空気が震えた。

 

 アズサは自分の愚かさに歯噛みする。対話? ハティは対話などしていない。自分より下等な存在に向けてただ思う所を吐き散らしているだけだ。このままではセプテントリオンの情報などとても聞き出せないだろう。


 なんとしてもハティを対話の場に着かせる必要があった。そのためには、アズサが対話に足る存在だと示さなくてはならない。気の遠くなるような話だ。それでもやるしかなかった。


「ハティさん、私と取引しませんか」


 結局、何かを得ようとすれば対価を支払うしかない。アズサはそう決めた。


 ハティが身を震わせる。やはりそれは笑っているのだ。しかし先の笑いとは一線を画す酷薄な笑いだった。


「取引! これは驚きだね? いったいアタシがどんな素晴らしいものをただの人間から欲しがるんだか、興味があるよ! 不老不死? 尽きぬ魔力? 人間の首を安々と落とす鋭い爪と牙? そのどれも持っていない泡沫の人間様がこのアタシになにをくれるっていうのかい? 実に楽しみさね!」


 ギョロリと七つの瞳が一斉にアズサを睨みつける。灼熱の吐息がかかった皮膚は火傷しそうなほどだ。聞こえるものはハティの獰猛な息遣いと、自分の早鐘を打つ鼓動だけ。


 答えを間違えたら死ぬ――。


 アズサの全身の細胞が産毛に至るまで死を予感した。アズサの脳はかつてないほどに回転し、時間は千倍にも引き伸ばされたようだった。


 そして、アズサは口を開いた。

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